「司馬遼太郎全集14、15 関ヶ原」司馬遼太郎 著

 以前に読んだ時は非常に面白いと感じたが、今回の再読では、それほどとは思わなかった。以前の読書での知識が、新鮮さを奪っているのかもしれない。あるいは他の資料で関ヶ原の戦いのことを何度も目にしているからなのだろうか。
 天下分け目の関ヶ原の戦いと言っても「戦争は政治・外交の一手段」だから、戦いそのものよりも、戦いに至るまでの、それぞれの参戦者の政治・外交で帰趨が決まるわけである。司馬遼太郎もそこに力を入れて書いている。この戦いでの政治・外交でのポイントは義ではなく、利・欲であることも書いている。まさに義の石田の敗北である。なお義が敗れた背景として、秀吉晩年の外征などで国民を苦しめた政治との訣別という点にも視点を置いている。
 それぞれの武将の私怨、恩義、自家にとっての損得勘定、戦いの大義名分とそれを受け止める各人ごとの解釈などが綾なす人間模様となって小説は進む。
 はじめに、石田三成の人柄、その家老の島左近のことが出てくる。東軍では家康の人柄、謀将の本多正信の考え方などの著述が続く。三成の側室となる初芽という女性を小説らしく登場させる。
 三成の鋭利過ぎて人に嫌われる横柄な性格を書き、秀吉子飼いの武闘派諸将(福島正則、加藤清正、黒田長政、細川忠興、浅野長政など)との確執、特に朝鮮の役での秀吉への報告の件でのトラブルなどが起因になっていることを書く。
 家康が勝手に大名間の婚姻などを決め、それを弾劾する動き、そこにおける前田利家の重みと、その死。それからの家康暗殺の動き、三成殺害の動きと、三成は家康邸に逃げ込んで佐和山に退隠する。次ぎに家康側が前田家に難題を持ちかけ、結局、利家室の芳春院を江戸に人質にとることで前田家の動きを止める。直江山城守と三成に密約があった前提で小説にしており、家康は上杉家の上洛を求め、それを拒む上杉家が直江山城守の直江状を送り、上杉家討伐が始まる。
 改めて思うのは、司馬遼太郎は人間に対して好き嫌いがはっきりしていることである。藤堂高虎などは悪く書き、幕末物の小説の中でも伊勢藤堂藩は家祖高虎の性格が出して悪役的に書かれる。福島正則も好きでは無いようだ。小早川秀秋は軽蔑している。
 このように関ヶ原の戦いに関与する各大名の性格、この事態への対処の方法などのエピソードを一章ずつ書いていく。
 前田家以外の五大老の家では、宇喜多家の宇喜多騒動という重臣間の内紛に家康が関与して力を弱める。毛利家は形だけは西軍の総帥になるが、吉川広家と安国寺恵瓊との確執を描く。上杉家では、後に上杉家を裏切った藤田信吉に触れる。

 小大名のことも書く。近江の名門京極高次のこと、西軍に義を通した田丸直昌、桑名の水軍を管理し、中立を守った氏家行広(後に大坂の陣で大坂城に入る)、親子で分かれた水軍の九鬼家、大坂方についたが、途中で東軍になり、兵糧米を東軍に差し出した鍋島勝茂、直茂のことも記述される。
 大谷義継と三成の友情、五奉行の増田長盛、長束正家の性格と立場(彼等は家康討伐の命令書を出すが、その石田三成蜂起の情報を家康に知らせている)も興味深い。
 大坂に残っている大名から上杉討伐中の家康軍に参加している当主への密使が無事に使命を果たすか否かで、後の加増も決まる面もあり、山内家のエピソードなども興味深い。次は、大坂にいる各大名家の夫人が人質にならないようにする脱出劇のドラマがはじまる。加藤清正室の脱出、細川ガラシャの死のことなどである。
 結果として西軍になった島津家の経緯、小早川秀秋の性格に触れ、木下勝俊と藤原惺窩との出会いを書き、伏見城攻めとなる。
 黒田如水の九州での活躍に至る経緯、真田家が両軍に分かれた犬伏の別れのことなどが書かれる。なおこの小説の結末は黒田如水と尼になった初芽との出会いの話で終わる。
 小山会議での堀尾忠氏と山内一豊とのエピソード(若い忠氏が「城地を徳川殿に進上する」との発言案を一豊が奪って先に言い、それで土佐一国をもらったこと)や石田憎しだけの福島正則の煩悶や会議という場では誰も発言せずに、声の大きい者(福島正則)の言に大勢は流れることなどの人間の心理を書く。
 先発した東軍諸将の心の動きと家康の慎重な姿勢、実際に西軍と戦わせてからの家康の尾張・美濃への下向となる。岐阜城(織田家)の戦いと内応、中山道での真田軍と秀忠軍のことが書かれている。
 大垣城などでの石田三成と島津家との確執、家康が大垣を攻めずに大坂に向かうとの情報を流し、関ヶ原に野戦に追い込まれる動き。三成の焦りが描かれ、そこに小説らしく、三成の愛妾初芽が登場したりする。また参陣しても意味のない場所で待機する西軍大名(最期は寝返る)などの日和見の様子などが描かれる。
 そして関ヶ原の戦いだ。小早川秀秋が裏切るまでは西軍が優勢という感じの叙述である。大谷吉継の奮闘振り、その家来の湯浅五助の忠義と戦いが印象的である。島左近の奮戦と蒲生氏郷系の家臣の活躍、その長の蒲生郷舎(横山喜内)の壮絶な戦いを描く。戦いの最中に三成が腹痛に苦しみながら各陣地に督戦に回る様子なども描かれている。
 敗軍の将になっても死なずに逃げるのは、源頼朝の石橋山にならっての逃避になぞらえてのことと書く。三成は逃避行の中で、昔、面倒をみた村人たちの義の心を知る。豊臣恩顧の大名の義の無さと対比が皮肉である。
 捕らえられてからの各大名の接し方、それに対する三成の心境なども小説らしく書いている。ここでも小早川秀秋は惨めに書いている。

「明治維新とは何だったのか」半藤一利・出口治明 著

2人の対談集であり、ペリー来航から西南戦争頃までを、「1.幕末の動乱を生み出したもの」「2.御一新は革命か内乱か」「3.幕末の志士たちは何を見ていたのか」「4.近代日本とは何か」と言う章立てで論じている。
1章では、ペリーの最大の目的は南北戦争後に急成長をしたアメリカ経済の受け皿にアジア市場が大事となり、その為の太平洋航路の開拓とある。この時、日本の老中の阿部正弘は開国・富国・強兵の順でやっていくしかないと考え、人材を登用する。ここで徳川幕府が初期に鎖国を選択した理由を議論しているが、西国諸藩が自由に貿易して幕府以上の富を得ることへの危惧との意見に私も賛成したい。この章の中で慶応元年から明治2年にかけての小銃の輸入量のデータ(長崎、横浜)が掲示されているが、面白い。銃の性能の差も加味すれば薩長が勝つのも当然となるのだろう。

2章では光格天皇の時に「幕府が天皇に打診する」ことの契機が生まれたとあり、なるほどと思う。薩長の関ヶ原の恨みをはらす暴力革命で、東北戦線は東北諸藩の反乱ではなく、防衛戦争と半藤氏は唱えている。ここで、県名と藩名が一致しない賊軍への扱いや、明治後期から大正にかけての陸軍将官の出身地一覧(圧倒的に薩長が多い。他は土佐、筑前、肥前、肥後、加賀、東京)や、明治年間に華族になった人物の出身地などの数値データが提示されているが面白い。華族の中でも上位の公爵、侯爵は薩長出身者である。
また岩倉使節団が海外に出た後の西郷隆盛が幕府出身者を登用したりしたことを述べている。西郷は詩人で理想主義者で毛沢東に似ており、大久保が現実主義者で周恩来に擬せられるとする。
維新の三傑無きあとは伊藤博文(政治)と山形有朋(軍事)となる。ここで統帥権問題をきちんとしておけば良かったが、同藩のよしみで「なあなあ」となり、これが尾を引く。また、このあたりから吉田松陰を持ち出し、御一新を明治維新としていく。

3章では、勝海舟が最初に日本人を意識したと評価する。西郷が宮廷改革をする。グランドデザイナーが大久保利通、合理主義者が桂小五郎、陰謀家が岩倉具視、軍事の才能があった板垣退助は会津戦争で武士は立派だったが町人、百姓はだめなのを見て、これは政治が悪かったためと悟り、自由民権運動にとある。よくできた話であるが本当だろうか。なおアーネスト・サトウのことにも言及している。

そして、近代日本は薩長がつくり、太平洋戦争で薩長が滅ぼした(統帥権問題)と述べている。

「画商のこぼれ話」 種田ひろみ著

おいだ美術を経営している画商のエッセイである。おもしろいのは贋作に関係する話である。中国陶磁器のことや山下清の贋作などの話が紹介されている。山下清の事件は、著者がいない時の画廊に「父親の喜寿の祝いに父が好きな山下清の作品を贈りたいが、お宅にあるか?」との電話がある。価格の方は相場に任せるというような内容である。「生憎、今は無いが、仲間業者にも確認して用意しておく」という返答をする。その後、しばらくしてから、別の人が「山下清の画を持っているが、折り合えば売りたい」との電話があり、来社される。「今は京都に住んでいるが、仕事のトラブルで急にお金が必要となる。千葉に住んでいる両親に相談すると、これで金策の一助になるだろうと渡される。昔、山下清に縁のあった人から両親が直接入手したそうです」との話。この時も著者はいないが、社員が「社長に観てもらってから」と言うと、「京都に帰るから、別の画商のところに行く」と言う。そこで購入。購入後、鑑定に出すとダメ。もちろん売り主にも電話はつながらない。
買いたいと電話をしてきた人物と、売りに来た人物がグルになっていたようで、そちらに電話をしてもつながらない。

私も知人の骨董商から、浮世絵の贋物を掴まされた同様な話を聞いたことがある。売りに来た人は品の良いお婆さんだったそうだ。騙す方もテクニックを駆使しているわけだ。
中国陶磁器の贋物の話も仕掛けの元での詐欺である。

絵の話は私にはあまり参考になることは無かった。昨今の現代美術の話や、昔の人気作家の価格暴落の話などもある。要は絵など美術品は本人が好きで買うもので、金儲け、金の保全の為に買うものではないと言うことだ。騙されるのも欲が動機にあってのことなのであろう。

「アジアのなかの戦国大名」鹿毛敏夫 著

「なるほど」と思った本である。室町時代から戦国時代にかけて西国の大名は中国、朝鮮、東南アジア諸国との貿易に目を向けていた。日本の天下取りよりも、そちらの方が関心事だったのかもしれないと思うようになる。

周防の大内氏は朝鮮との通交が大半だったが、宝徳3年(1451)の遣明船派遣において足利義政が幕府が船を仕立てることができないから諸勢力に日明勘合をばらまいたことで、それに参加した。博多商人と結託していた。その後、細川氏の策略で途絶えるが、40年後の永正の派遣から天文7年、天文16年と独占する。博多商人以外の堺商人や薩摩商人も参画していた。豊後大友氏の家臣の上野遠江守も参加していた。上野氏は豊後水道を中心とする海の武士。中国との貿易も行っていた。

遣明船とは別の地域大名の私貿易も多かった。

豊後の大友氏はやはり朝鮮外交をしていた。宝徳の遣明船にも関与していた。 大友氏はそこで私的な遣明船を行う。入貢を断られると沿岸警備の手薄な福建海域にまわり私貿易を行う。倭寇密貿易船である。大内義長は贋の日本国王之印を使用している。弘治の船ではバレて明は取り締まり、倭寇の頭目の王直が捕まる。
大友氏は天文21年に正式に遣明船を派遣。大内義隆没後に大友家の者(晴英、大内義長)が大内氏に入嗣したためである。硫黄、瑪瑙、金屏風、扇などを持って行く。

肥後の相良氏は天文11年に琉球へ派遣。国料船(関税免除などの特権を持つ公船)として派遣する。市木丸を建造して、これを明にも派遣していた。肥後の宮原で銀が見つかりそれで明に派遣。
松浦鎮信もシャムと通交していた。島津義久はカンボジア国王への親書もある。大友氏もカンボジアと通交。カンボジア国王から大友義鎮は「日本九州大邦王」と呼称されていた。天正元年(1573)の段階で外交関係を樹立していた。島津も三州の太守だが、九州全域が領地のように行動していた。松浦氏も日本国平戸ではなく、日本平戸国と自称。
西国ではないが、越前の朝倉義景も永禄10年(1567)薩摩を通して琉球と通交。毛利氏は永禄5年(1562)に対馬宗氏へ朝鮮王朝への斡旋を依頼している。

貿易品で大事なのは硫黄。宝徳の遣明船では39万7500斤の油黄(硫黄)、15万4500斤の銅、10万6000斤の蘇芳、9500振の太刀、417振の長刀、1250本の扇が輸出品。
硫黄は薩摩の島津氏が硫黄島から、豊後の大友氏は湯布院の伽藍岳、鶴見岳や九重連山から採る。採るのは簡単であった。宋の中国は兵器として黒色火薬の原料として需要があった。日本では寺院の灯心の着火剤需要だった。ちなみに硫黄は昭和前期には花形産業。硫酸、硫安になる。昭和30年代になると石油脱硫装置で効率的に硫黄が生産されるようになる。昭和40年代半ばに国内の硫黄鉱山は閉山になる。
シルバーラッシュと同様に、サルファー(硫黄)ラッシュだった。 日明貿易、南蛮貿易、朱印船貿易の主要輸出品であった。

この頃の九州中世社会にはアジアへの志向の強さがあり、その伝統からの他者受容の開放性があった。城下町には唐人がおり、大友氏には樹岩見山という唐人が狩野永徳にアドバイスした。飫肥藩の医師には徐氏がいる。臼杵には陳元明がいて、漆喰が得意な仏師だった。
アジアン大名はキリスト教の宣教師を西域より来朝の僧としてとらえていた。都市信仰には開放性があった。九州では大友義鎮、大村純忠、有馬氏、中国四国では宇喜多氏、一条氏、畿内では高山氏などが切支丹大名。アジアン大名からキリシタン大名が生まれる。

「大坂侍」「泥棒名人」「けろりの道頓」 司馬遼太郎 著

 「司馬遼太郎全集13 俄 浪華遊侠伝」に所載の3つの短編である。「大坂侍」は大坂人の気質をうまく書いていると言うか、少し極端に描いていると言うべきか、興味深いものである。
 主人公は幕末の大坂の川同心で十石三人扶持である鳥居又七である。同心は一代限りの雇いだが、子を推薦することで代々と家を繋いできている。鳥居の家は長篠合戦で勇名を馳せた鳥居強右衛門の末と称して、他の大坂侍とは違うという誇りを父は持っている。父は病身であるが、鳥羽伏見の戦いで慶喜将軍が大坂から江戸に逃げ帰ったが、幕府の彰義隊が江戸で戦うとの情報を聞いて、息子の又七に参加するように勧める。主人公の又七は大坂侍にしては珍しく剣術はできるが、この時はそこまで幕府に義理立てするのはと一笑に付す。
又七は材木屋大和屋源右衛門の娘のお勢が黒門組の連中にからまれていたのを助けたことにより、お勢に惚れられて材木屋の婿にと迫られている。もちろん大和屋も乗り気であり、
又七の極楽政なる極道の友や、又七の剣の師匠の渡辺玄軒にも縁談がまとまれば50両という金をもらう約束だから、この縁談に熱心である。縁談を斡旋するものも金で動くわけだ
お勢を助けた時に痛めつけた黒門組の連中から又七は狙われる。その用心棒に天野玄蕃という剣術道場主が傭われている。
また又七の妹の衣絵は、従兄弟の具足方同心の田中数馬の許嫁である。

又七は黒門組に襲われる。そこに彼等の頭領の黒門久兵衛が止めに入る。それは玄軒が10両を渡したからである。喧嘩も金でやりとりされるのに又七もあきれる。

大坂城は新政府に明け渡されることになる。黒門組の用心棒の天野は勤皇に取り入る。
又七の父が逝去する。手文庫の中に10両あり、これが江戸行きの費用と父の遺言であるが、又七は妹の結婚資金として手渡す。
その妹の許婚の田中数馬が新政府の天野に幕府の間諜の容疑で捕まる。要は保釈の金目当てである。
又七は天野玄蕃を斬り、玄蕃が持っていた金の内、百両を奪い、船で江戸に向かって、父の遺言のように上野の彰義隊に入ることにして大坂を出奔する。
しかし、彰義隊では仲間も一人もおらず、また大坂の者というと勘定方に廻されそうになり、怒り、大坂侍の悲哀を感じる。
彰義隊の上野の戦いでは、目に見えないところからの弾丸が中心であり、又七は幻滅する。そして大坂の回船問屋の江戸店に逃げ込む。この回船問屋は又七に阿呆なことはやめとけと言っていた。官軍に金を貸しているし、彰義隊を討った大砲の弾はここが運んだものと言う。又七は大坂から出てきて、大坂の商人にやられたようにものと気が付く。
そこにお勢が心配して来ている。孫悟空がお釈迦様の手の中で暴れていたと同様に、大坂の商人の手の中で暴れていたと気が付く。
何事も金の世界という大坂における侍の位置づけを司馬遼太郎は語っている。

「泥棒名人」

五畿内随一の名人といわれた泥棒の江戸屋音次郎(元は江戸でならした泥棒)と、行者玄達と呼ばれて大坂の泥棒名人の物語である。あまり面白くなく、結局は行者玄達に泥棒で負けて女房も盗まれるという話である。

「けろりの道頓」

大坂の安井村の大地主の「けろりの道頓」は頭が大きくて立派な顔をしており、市内を循環していた秀吉の目に止まる。その時に連れていた道頓の愛妾の一人を秀吉の側室にと望まれ、提供する。
道頓は秀吉にあったことに感激しているようであり、また愛妾の一人を秀吉に差し出したことでがっかりしているようだが、表情にはあまり出ないでけろりとしている。御礼に秀吉から錦鯉が来ると、その為に大きな池を掘る。
あるとき奉行から、大坂城下に大きな堀を掘削することを頼まれる。これだけの工事を請け負えるのが道頓しかいないとのことだ。ただ関ヶ原の戦いなどで話は立ち消えになるが道頓が自分で作ると言い出し、自費で工事をはじめる。
大坂の陣で、工事中止を要請され、あっさりと途中で工事をやめる。そして道頓は敗色濃厚の大坂城に入り、死ぬ。
道頓の死後、徳川の大坂城代が、工事を行い、道頓堀と名付ける。
大坂人の一つとして紹介された面白い短編である。

「司馬遼太郎全集13 俄 浪華遊侠伝」 司馬遼太郎 著

 幕末~明治にかけて大坂で活躍した明石屋万吉の物語である。面白い小説である。明石屋万吉の父は幕府隠密の明井采女である。十一代将軍家斉の内命を受けて、大坂の高級幕吏の身辺を探っていたが、家斉が死去した為に復命の機会を失って浪人したという設定である。北野村の百姓の娘を妻として、明石屋儀左衛門の養子となり、名も九兵衛と改める。万吉はその長男である。そのうち、父親は養家を追い出され、一家は乞食同然の身となり、万吉は商家に奉公に出される。そこに父親が逐電したとの連絡が入り、母を食べさせる為に何も考えずに商家を出る。
 仕事も、食べるあても無い中で、違法な賭場を開いているところに飛び込んで、そこにある金を取ることを思いつく。当然に殴られ、半殺しにあうが、それを覚悟で実行する。殴られても一切抵抗せずに、金を奪う。その内、違法な賭場を開いている人間は万吉が来ると嫌になり、「もう来るな」で銭を渡して済ますようになる。万吉は、そこで得た金を母の家に投げ込む。母は当初は誰が金を投げ込むかもわからず、その内、万吉だとわかると泥棒をした金と思い、使わずに保管しておく。
この後、万吉は孝行の鏡としてお上から表彰されるようなこともある。

こんな命を粗末にする稼業をしている中で、存在感を増していく。頼まれたら、仕事の内容を聞かずに受けるか、受けないかを決め、受けると決めたら命を捨てるつもりで取り組むのが男稼業である。
色々な頼まれ仕事の記述が面白い。大坂の米問屋に頼まれて、江戸からの買いで高騰続ける米相場を潰すような乱闘も行う。役人は江戸の業者とグルであり、出頭した万吉は牢内で物凄い拷問を受ける。石抱きや海老攻めなど普通の人では耐えられない責め苦を受ける。それでも依頼主の大坂の米問屋の名前を出さず、役人も感心し、依頼の米問屋から毎年の礼米を受ける。
またある時は、大坂に赴任した幕府の高級役人から、身分の高い幕府の隠密が行方不明になり、恐らく探っていた奉行所与力などに謀られて牢内にいるのではないかとの推測の上、万吉が牢に入ることで助けることを頼まれて首尾良く救い出す。後にこの時の隠密が大坂町奉行に赴任して粛清を行う。

このようにして得た礼(米や金銭)も私腹を肥やすことなく、頼られる人間にばらまき、益々人望を高めていく。幕末の大坂も治安が悪くなり、一柳家一万石という小大名が大坂の川の警備を頼まれ、それを万吉を上士(足軽頭で十人扶持)に取り立てて警備してもらうことになる。この為の費用も万吉持ちであり、番所を賭場にして費用を稼ぐ。武士だから姓名を名乗る必要があり、本姓の明井ではなく、小林佐兵衛と名乗る。
禁門の変後に負けた長州人の取締が厳しくなるが、万吉は川の番所で長州侍を助ける。勤皇も佐幕も無く、大坂の町を守る(往来安全)というスタンスである。桂小五郎も見逃したことにしている。この時、助けた長州人が明治になって、万吉の力になってくれる。万吉の力になると言っても、明治の新政府も万吉の動員力や人望、資金力を頼りにするわけである。

 長州人を助けていることを幕府の役人は知り、万吉を亡き者にしようと画策し、一柳藩の大坂留守居役と謀って新撰組に万吉を斬らすようなことを実施する。この気の弱い大坂留守居役が万吉に藩に代わっての警備を依頼した人物である。武士の情けなさも司馬遼太郎は書いていく。
 鳥羽伏見の戦いでは一柳藩が幕府方につくとのことで、万吉こと小林佐兵衛も戦いに参加し、部下を失う。万吉は後悔すると同時に、この過程で幕府の侍のどうしようもなさを知る。
 万吉は身分性社会の中での幕府、侍の腐敗を知る。同時に万吉が牢に入って助けたような隠密のような侍もいることを万吉は感銘する。

 維新後、処刑されかかるが、万吉が助けた長州侍に刑場で出会い助かる。万吉は賭場の運営から手を引き、困窮するが、昔、助けた者が米相場に導き、万吉は巨利を得る。堺で土佐藩士がフランス軍人を殺し、土佐藩士が切腹する堺事件のことも詳しい。ここでも頼まれ仕事をする。
 禁門の変の時に幕府によって殺された長州藩士66名の霊を商売にしていた人物は、長州系の新政府要人の要請にも商売利用を止めなかったが、万吉が役人に頼まれ、別途、祀ることになる。こんな費用も万吉持ちである。また、新政府の役人によって北区の消防頭にさせられ、また旧幕府時代の「お救い所」を新政府が引き継ぎ、万吉が北区に授産場を建て、家財を使うようなハメになる。品川弥二郎から国会議員の選挙における政敵つぶし頼まれたりする。それが男稼業の明石屋万吉である。

 長寿で亡くなるが、自分の一生は俄(にわか)を演じていたようなものとの万吉の述懐がタイトルになっている。小説だから虚実取り混ぜてあり、どこまで本当かはわからないが関東の博徒とは違う、上方の博徒を描き、司馬遼太郎の傑作の一つである。

「北斎漫畫」永田生慈 監修・解説

葛飾北斎の「北斎漫画」の初編から十五編までを一冊にまとめ、解説を加えた分厚い本(959頁)である。金工村上如竹の馬の姿態が、ここに描かれているかと思い、全ページを概観した。
解説によると、早くから西洋の人に高い評価を受けていたのが、富嶽三十六景ではなく、この北斎漫画だったと言うことだ。
いずれも巧みなデッサンであり、動植物図譜であり、挿絵であり、風景のスケッチであるが、私は人物の動きのある様々な姿態を写し取った絵に感心する。初編、二編、三編によく観られる。四編には鳥の様々な飛翔の姿が素晴らしい。五編は物語の挿絵が多い。六編は武士が弓を引いたり、馬を乗りこなしたり、槍や棒を使っている図など武闘編である。七編は風景画、八編は様々であるが、人物の姿態や顔の様々が面白い。九編は物語絵が多い感じ、十編は市井の曲芸師や物売りに幽霊などである。十二編には精巧な絵や卑猥な絵もある。十三編から十五編は以上の色々なジャンルが交じっている。十四、十五編は北斎没後の編集の可能性もある。全編を通すと、彫りの出来にムラがあり、また計画的でもないと指摘されている。

北斎55歳時の文化11年(1814)に初編が上梓されている。北斎のデビューはこの25年前の安永8年(1779)に勝川春章としてだ。役者絵を中心に幅広い題材を絵として黄表紙や洒落本などの挿絵の分野でも活躍した。そして北斎は寛政6年(1794)に宗理と画名を変える。上方から伝えられた琳派の様式になり、俵屋という画派の頭領となる。流行した狂歌の狂歌摺物に作品が多く、叙情的な雰囲気を持つ。美人画の評価も高い。寛政10年(1798)に北斎になるが文化年代から勇壮な武人など漢画的になる。これは当時流行していた長編小説の読本挿絵として発展する。
この時代に数は少ないが美人画や東海道、あるいは洋画表現を用いた名所絵などもある。
50歳以降、作品は少なくなる。あの富嶽三十六景を上梓したのは天保2年(1831)からだ。
文化7年に絵手本の初作を出す。絵手本は中国からの画譜に影響されたと思われるが、京都では西川祐信、江戸では鍬形薫斎(北尾政美)に多い。
北斎は文化9年に大坂、大和吉野、紀州、伊勢に旅し、名古屋で滞在。この時に北斎漫画の初編の下絵が制作される。この年に江戸に戻るが、文化11年に名古屋の永楽屋から上梓される。二編から十編までは江戸の角丸屋から出版される。後に永楽屋が版本を買い取る。
角丸屋は北斎に読本挿絵を依頼していた版元である。5年で十編まで完結し、角丸屋は版木を文政五年頃までに永楽屋に売却する。
十一編から十五編だが、永楽屋が中心に角丸屋も入れて9の版元の名がある。すべての刊年は不明であるが文政六年から天保四年頃と想定される。

「司馬遼太郎全集11 国盗り物語(後編)」 司馬遼太郎 著

 後編は織田信長の物語となっているが、明智光秀のウェイトも高く、2人の物語である。それは斎藤道三の衣鉢を継ぐのが娘婿の信長と道三の妻の縁戚の光秀という位置づけで、光秀は道三に可愛がられ薫陶を受けていたという設定だからである。
 昔、読んだ時は織田信長中心の物語だったという印象が強かったが、今回、再読すると明智光秀のウェイトがかなり高い。また昔は面白い小説で司馬遼太郎の傑作の一つだと感激したが、今回は前編も含めてあまり感激はしなかった。
 ここで展開されている信長と光秀の葛藤=光秀が謀反を起こす理由は、信長の近代性(中世の伝統を無視して合理的に思考・行動する)と、光秀の古典的教養(古くからの伝統も大事にする)から来るとして、物語をその方向にもっていっている。ある意味で陳腐な説である。

 はじめに信長の少年期のうつけ者と言われた時代を描き、濃姫との結婚、信秀の葬儀の時の態度、斎藤道三との対面が書かれる。古くから知られた話である。
 信長と美濃の間でお勝という娘が元で緊張する場面が描かれる。お勝の言いかわした者が信長の近習に討たれる。信長はその近習を美濃に追放する(実質は道三に頼んで匿ってもらう)が、お勝が美濃に行き、道三の跡を継いだ義竜に訴え、それが美濃と尾張の緊張につながる場面である。その後、道三と義竜は争い、道三が討たれる。
 明智光秀は伯父が道三方につき、美濃から追われる。京都の朽木谷で、都を追われていた足利義輝に仕えていた細川幽斎と出会い、親交を結ぶ。

 信長は桶狭間で今川を破る。光秀は越前に出向き、朝倉を頼るが越前は老大国になっていて光秀が活躍できる余地はない。
 信長は堺と京を見学して視野を広める。その後、信長は美濃攻略を試みるが義竜相手でうまくいかないが義竜は35歳で逝去する。
 光秀は細川幽斎らと足利家の勢威恢復を試みるが思うようにいかず、足利義輝は三好、松永に殺される。そこで奈良で僧侶になっていた足利義昭を引っ張りだし、甲賀の和田家に匿う。その後、越前金ケ﨑城に朝倉家が足利義昭に住居を提供する。
 信長は稲葉山城を攻略すべく、美濃国内に調略の手を伸ばす。木下藤吉郎が活躍する。光秀の足利家再興の悲願は、朝倉家ではらちが明かずに織田家に頼ることにし、光秀は織田家にも仕える。ここから信長の家臣としての明智光秀の活躍が始まる。
 信長は上洛し、将軍の館を京に作るが、光秀は信長に足利家再興などの気持ちが無いことがわかってくる。光秀は煩悶するが、足利義昭の性格・器量を知ると、信長が覇権を握るのが仕方無いと思い、忠勤に励む。
 足利義昭は反信長連合に暗躍する。越前攻め、その最中の浅井の離反での殿軍として木下藤吉郎と徳川家康と協力して窮地を脱する。浅井との姉川の戦い、比叡山の焼き討ちなど光秀も参加した戦いの話が続く。
この間、比叡山の焼き討ちや、浅井長政などの髑髏の杯などで光秀は心の中で信長への反発を強めていく。
 信長は古くからの家臣を追放していく。いつか自分もと光秀は考える。また荒木村重が叛旗を翻した後の荒木一族へのむごい仕打ちに心を痛める。
 謀反前後の光秀の行動や、そこにおける心の動きなどは、司馬遼太郎の小説らしく巧みである。