「アジアのなかの戦国大名」鹿毛敏夫 著

「なるほど」と思った本である。室町時代から戦国時代にかけて西国の大名は中国、朝鮮、東南アジア諸国との貿易に目を向けていた。日本の天下取りよりも、そちらの方が関心事だったのかもしれないと思うようになる。

周防の大内氏は朝鮮との通交が大半だったが、宝徳3年(1451)の遣明船派遣において足利義政が幕府が船を仕立てることができないから諸勢力に日明勘合をばらまいたことで、それに参加した。博多商人と結託していた。その後、細川氏の策略で途絶えるが、40年後の永正の派遣から天文7年、天文16年と独占する。博多商人以外の堺商人や薩摩商人も参画していた。豊後大友氏の家臣の上野遠江守も参加していた。上野氏は豊後水道を中心とする海の武士。中国との貿易も行っていた。

遣明船とは別の地域大名の私貿易も多かった。

豊後の大友氏はやはり朝鮮外交をしていた。宝徳の遣明船にも関与していた。 大友氏はそこで私的な遣明船を行う。入貢を断られると沿岸警備の手薄な福建海域にまわり私貿易を行う。倭寇密貿易船である。大内義長は贋の日本国王之印を使用している。弘治の船ではバレて明は取り締まり、倭寇の頭目の王直が捕まる。
大友氏は天文21年に正式に遣明船を派遣。大内義隆没後に大友家の者(晴英、大内義長)が大内氏に入嗣したためである。硫黄、瑪瑙、金屏風、扇などを持って行く。

肥後の相良氏は天文11年に琉球へ派遣。国料船(関税免除などの特権を持つ公船)として派遣する。市木丸を建造して、これを明にも派遣していた。肥後の宮原で銀が見つかりそれで明に派遣。
松浦鎮信もシャムと通交していた。島津義久はカンボジア国王への親書もある。大友氏もカンボジアと通交。カンボジア国王から大友義鎮は「日本九州大邦王」と呼称されていた。天正元年(1573)の段階で外交関係を樹立していた。島津も三州の太守だが、九州全域が領地のように行動していた。松浦氏も日本国平戸ではなく、日本平戸国と自称。
西国ではないが、越前の朝倉義景も永禄10年(1567)薩摩を通して琉球と通交。毛利氏は永禄5年(1562)に対馬宗氏へ朝鮮王朝への斡旋を依頼している。

貿易品で大事なのは硫黄。宝徳の遣明船では39万7500斤の油黄(硫黄)、15万4500斤の銅、10万6000斤の蘇芳、9500振の太刀、417振の長刀、1250本の扇が輸出品。
硫黄は薩摩の島津氏が硫黄島から、豊後の大友氏は湯布院の伽藍岳、鶴見岳や九重連山から採る。採るのは簡単であった。宋の中国は兵器として黒色火薬の原料として需要があった。日本では寺院の灯心の着火剤需要だった。ちなみに硫黄は昭和前期には花形産業。硫酸、硫安になる。昭和30年代になると石油脱硫装置で効率的に硫黄が生産されるようになる。昭和40年代半ばに国内の硫黄鉱山は閉山になる。
シルバーラッシュと同様に、サルファー(硫黄)ラッシュだった。 日明貿易、南蛮貿易、朱印船貿易の主要輸出品であった。

この頃の九州中世社会にはアジアへの志向の強さがあり、その伝統からの他者受容の開放性があった。城下町には唐人がおり、大友氏には樹岩見山という唐人が狩野永徳にアドバイスした。飫肥藩の医師には徐氏がいる。臼杵には陳元明がいて、漆喰が得意な仏師だった。
アジアン大名はキリスト教の宣教師を西域より来朝の僧としてとらえていた。都市信仰には開放性があった。九州では大友義鎮、大村純忠、有馬氏、中国四国では宇喜多氏、一条氏、畿内では高山氏などが切支丹大名。アジアン大名からキリシタン大名が生まれる。

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