「渡来人とは何者だったか」武光誠 著

古代史では渡来人という言葉が出てくる。これは歴史学の用語で「飛鳥時代以前に、朝鮮半島から日本へ移住してきた人々」のことである。だから鑑真のように奈良時代に唐から来た人には使わない。

渡来人で有力だったのが、飛鳥地方南部を本拠とした東漢(やまとのあや)氏で、蘇我氏の全盛時代に軍事面で助けて活躍する。
もう一つの集団は京都の太秦を本拠とした秦(はた)氏である。それぞれ始祖は漢の劉邦、秦の始皇帝としているが、嘘である。始祖がいい加減なのは日本の豪族でも同様である。
東漢氏は兵力と技術力で蘇我氏に重用される。仏教興隆策の担い手であった。蘇我入鹿が暗殺され東漢氏は政権から遠ざけられるが、壬申の乱の時に大海人皇子側について戦い、復権する。文氏、民氏、坂上氏などが中央で活躍するが、地方にも出向き、武士になった家も出たと考えられる。

秦氏は蘇我氏の元で大蔵の管理などに携わる。機織りの技術をもっていた。そして山城、近江に勢力を広げる。農地開発でも力を発揮し、秦河勝は聖徳太子の参謀にもなる。山背大兄皇子に近づき、中大兄皇子に接近する。壬申の乱後に中央政界から離れ、桓武天皇の長岡京建設時に協力する。

その他は船氏、西文氏、鞍作氏などが渡来系氏族であった。朝廷の実務を担当する下級役人の地位を世襲していた。明治期に西洋諸知識が必要になった時代と同様である。船氏は高句麗からの国書を読んだことで知られている。津氏、白猪氏も蘇我氏の元での実務官僚。鞍作氏は鞍作りの技術を持ち、仏像も造る。

3世紀の邪馬台国の時代は往来はわずかだが、大和朝廷が北九州を支配下に組み込んだ4、5世紀は朝鮮半島南端の加邪(かや)とは比較的自由に行き来ができ、言葉も共通していた。
6世紀に新羅と百済が国を意識する。600年に新羅が加邪(8国)を併合。678年に新羅が朝鮮半島を統一。

7世紀末に百済が亡び、この時に数千人ほどが日本に移住。百済の官位で上から2番目の「達卒(だちそつ)」の者も約70人ほどいた。兵法、医術、儒学、陰陽五行に詳しい者や漢詩などに堪能な者は知識人として優遇される。秦氏の影響が強い近江国神前郡に400人、蒲生郡に700人ばかりが移住。また東国にも2000余人が移住。
高句麗が668年に滅ぶが、その時に2000人ほどが移住し、常陸や東国(武蔵の高麗郡が中心)に移住する。

大化の改新(645)の後に、唐の制度にならって近代化したが、この頃、漢字も日本古来の豪族も学び、渡来人優位は崩れてくる。その例として、大宝律令制定(701)の編集人19人の内、純粋な渡来系出身者は6人だけ(広く考えると8人)となる。

「名画の読み方」木村泰司 著

この本は西洋美術を理解する上で大事なことが書いてあるが、一通りの西洋絵画の基礎知識が無いと理解するのは難しい本だ。同時に当時の西洋絵画がキリスト教の宗教画がメインであることから、キリスト教の知識(画題の理解)が無いと読みにくい。さらに言うと宗教画のもう一つのギリシャ神話の知識が必要だ。

19世紀までは、絵画は見るものではなく読むものだったと言う。確かに宗教画は、文字の読めない民衆をキリスト教に誘うものであり、絵本のような絵で理解してもらうことが大事だったと思う。
絵画のジャンルを歴史画(聖書などを題材とした宗教画や、神話のストーリーを画いた神話画、抽象的概念を絵で表した寓意画)、肖像画(神が創りたまえた人間を描く)、風俗画(日常生活を描く)、風景画、静物画に分けている。そして、この順が絵画の価値(ヒエラルキー)を物語っていた。だからそれらを画く画家も、この順で社会的地位が高かった。

当時の発注主は高位聖職者や王侯貴族であり、歴史画と肖像画が主になる。歴史画の付属として風景や静物であり、これが生まれたのは17世紀以降となる。17世紀以降に新興市民階級が勃興してきて絵画に対するニーズ、嗜好が変化してきたわけである。
19世紀の民主化と社会の多様化によって絵画のヒエラルキーも曖昧となり、崩れていくわけである。そこから印象派などが生まれるわけで、それ以降の絵画鑑賞と、それ以前は別のものと著者は書く。

宗教画は目で見る聖書。ユダヤ教は偶像崇拝を禁じているが、キリスト教は2次元の偶像崇拝は容認されていた。画く題材は旧約聖書、新約聖書の大事な物語となる。例えば旧約聖書のストーリーでは「天地創造(神が7日をかけて大地や生物を創り、最後に人類を創る)」、「アダムとエヴァの楽園追放(神の命に背き、蛇の誘惑で知恵の木の実を食べ、楽園追放)」などである。

新約聖書では「受胎告知」、「東方三博士の礼拝」、「最後の晩餐」などである。

そして描かれる人物(聖人、神話の主人公)は、それぞれ象徴する持ち物を持って描かれる。それをアトリビュートと言う。日本でも「竹があるから虎だろう」「牡丹があるから猫だろう」となる。

例えばヨハネは鷲、ペトロは鍵、逆十字架、ヒエロニムスはライオン、骸骨などだ。

神話画ではギリシャ神話が元である。ヌードを描く時は神話画が口実になったわけだ。16世紀のローマやヴェネチアは人口に対して娼婦の占める割合が高く、宮廷人を意味するコルティジャーナと呼ばれた高級娼婦が、江戸の花魁のような存在になる。音楽や文学などの諸芸に秀でて賞賛され、女神のモデルになる。
オリンポスの12神もそれぞれにアトリビュートを持つ。ユピテルは鷲や雷電、牡牛や白鳥、黄金の雨などである。

肖像画のはじまりは早く、古代ギリシャからあるが、4世紀にキリスト教が普及すると個人の肖像文化は廃れる。14世紀に復活し、決まりごとは四分の三正面像。全身像は王侯貴族向け、上層市民階級は半身像、職業を表す道具と共に画かれる。16世紀に神話が王侯貴族の間に浸透すると、扮装肖像画もしくは寓意的肖像画が生まれる。アルチンボルドのルドルフ2世がそうである。
17世紀のオランダでは集団肖像画が生まれる。これは記念写真だ。

風俗画は16世紀からフランドル地方で発展し、17世紀のオランダで黄金時代。オランダでは戒めの絵画がはやる。庶民の風俗=悪徳を反面教師としてとらえた。

18世紀のフランスでは雅宴画という風俗画がロココ時代とともに生まれる。上層市民階級向けである。中堅市民階級向けの絵画も出る。バルビゾン派などがそれである。

風景画は、背景としての風景から独立していく。理想的な古典文学のイメージを画いた理想的風景画がはじめである。
17世紀後半からイギリスの貴族がグランドツアーという修学旅行をヨーロッパ大陸に出かける。そのツアーの記念、思い出の絵はがき的なヴェネチアの風景画などが好まれる。

静物画も17世紀に市民階級が勃興したオランダから生まれ、日常生活にあふれるもののシンボリズムで、神秘主義の台頭もある。

国立西洋美術館に行くと、常設展は時代別に展観されている。印象派の部屋までは大半が宗教画、神話画であまり面白くない。印象派の部屋に来ると、一挙に明るくなる。そして20世紀の部屋は抽象画が多くなり、わけがわからなくなる。
私は、別に絵が何を意味しているかなどはわからなくても、自分の心に響くかどうかであるから、この本のような知識を必要としないが、基本知識だと思う。

「司馬遼太郎全集10 国盗り物語(前編)」 司馬遼太郎 著

美濃の斎藤道三の物語である。後編がその娘婿の織田信長の話となる。さて斎藤道三は近年の研究によって、斎藤道三一代で美濃の国主になったのではなく、古文書「六角承禎条書写」によって、その父の長井新左衛門尉(別名:法蓮房・松波庄五郎・松波庄九郎・西村勘九郎正利)との父2代にわたるものではないかという説が有力となっている。

司馬遼太郎がこの小説を書いたのは昭和38年~41年は、この史料が出るちょっと前であり、従来からの通説を使って、道三一代での国盗りとしている。常識では考え難い国盗りだが、小説では女性の力を上手く使うように設定して、説得力のあるストーリーとしている。女性との絡みは司馬遼太郎の読者サービスであり、司馬の他小説でも使う小者(今回は忍者ではないが同様の能力を持つ)の赤兵衛、耳次、杉丸などをうまく登場させて場面を運ぶ。

当初は日蓮宗妙覚寺で法蓮房と名乗り、智恵第一と言われた者だったとの設定からはじまる。寺を出て還俗し、松波庄九郎(北面の武士松波家の一族というのも系図に書いてもらったようにしている)となり、寺からついてきた赤兵衛を家来にして乞食のような暮らしをしている時に盗賊を退治することから小説ははじまる。
その盗賊は京の大きな油問屋奈良屋の隊商護衛隊長を殺していた。それで奈良屋につながりをつけて、奈良屋の若後家お万阿と知り合い、昵懇となる。油問屋を大きくしていくが、商売をやり過ぎて他の油商を敵に回す。当時は油は大山﨑八幡宮が全国の油商に商売許可を出す元締めで油座を形成していた。結局、奈良屋を潰して、新たに山﨑屋となり、山﨑屋庄九郎となる。奈良屋を結局は乗っ取った形になる。ただお万阿は生涯大事にしていた。

商売の間、諸国の事情を探り、美濃に目をつけて、美濃に乗り込む。美濃の日蓮宗常在寺の日護上人は守護代長井利隆の実弟であり、法蓮房時代の弟弟子である。日護上人が兄の長井利隆に推薦し、利隆に信頼され、利隆が仕えている土岐頼芸(現守護の弟)に近づく。
美濃の名族西村家を継いで西村勘九郎となる。この間、山﨑屋の財力を賄賂に活用していく。

頼芸との座興の中で槍の芸(庄九郎は槍の達人)を見せ、頼芸の愛妾深芳野を拝領する。この時、深芳野の腹には頼芸の子が宿っていた。
それから美濃の府城であった川手城を奪い、守護の土岐頼政頼を越前に追い、長井利隆の推薦で、長井新九郎利政になる。
その後、長井家の宗家の長井藤左衛門を討つ。美濃の地侍が立ち、窮地に陥ると元の坊主になると言って道三となる。日護上人がなんとか収めてくれる。

尾張の織田信秀がたびたび美濃に侵入し、これを破ることで美濃の地侍の信頼を得ていく。明智の娘小見の方を、後に正室にするとの約束で養育し、正室にした後に、娘(濃姫)が生まれ、これが織田信長の室となる。明智光秀とも縁ができるという想定である。

土岐頼芸の命で美濃の名族:斎藤氏を継いで斎藤左近大夫秀竜となる。そして自分の城として稲葉山城を設計し、城下町を形成する。当時は武士は常には領地で生活していたが、それを城下町に集め、軍事機動力を高めることを考える。(後に信長が実施)

土岐頼芸の子の小次郎頼秀も反乱するが、これを追い、斎藤山城守利政と改名する。そして頼芸を美濃から追う算段をはじめ、追放する。
尾張から濃姫をもらいたいとの使いがくる。庄九郎も老いを覚えてくる。ここで前編は終わる。

「司馬遼太郎全集9 功名が辻」 司馬遼太郎 著

山内一豊の妻千代と、山内一豊の物語である。織田信長の家臣で50石という小禄で「ぼろぼろ伊右衛門」と異名を持っていた山内一豊が、美濃で評判の美人という千代を嫁にもらって、千代の内助の功もあって土佐24万石の一国一城の主となった経緯を小説にしている。

冒頭は結婚式の当日からはじまる。千代の父は浅井家家来の若宮喜助で、千代が4歳の時に戦死し、母・法秀尼の親戚の不破家で育つという設定である。不破家が母を通して金十枚を鏡箱におさめさせ、これは夫の一大事の時に使うようにと持たす。これが今に伝わる一豊の妻の逸話(名馬を購入)につながる。

伊右衛門こと一豊は、織田家の一つ岩倉織田家の家老の家だったが、信長が岩倉織田家を滅ぼした為に没落していたとの設定である。だから何となく気品のあるような描写をしている。真面目で実直という性格設定だ。

千代は夫を立てながら、するどい観察眼で、夫が良い方向に行動するように助けるという典型的な賢夫人として描かれている。
二人の間には娘が一人しか生まれなかったが、結婚当初に一豊が千代に誓ったことを守って側室も置かなかったという設定だが女忍者との出会いを書く。また一度だけ、千代が側室を進めた顛末も記されている。
なお千代との間の一人娘は長浜城主時代の天正大地震で圧死している。そして捨て子を拾い、養育し、この人物が湘南和尚になり、山﨑闇斎の師となったようだ。

甲賀忍者を登場させて都合良く小説の筋を整えていくのは司馬遼太郎の小説手法だが、ここでも望月六平太を登場させて、この絡みで前述した女忍者との関係が生まれる。

成り上がり者と蔑まれていた秀吉の与力になったのが一豊の幸運の第一歩である。郎党の五藤吉兵衛と祖父江新右衛門と一緒に戦っていく。金ケ崎の殿戦の時に顔に矢が刺さる大けがをするが武功を立てて200石となる。
姉川の戦いでも武功を立てて400石となる。千代の進言で石高以上の家来を傭う。
浅井攻めの横山城の陣でも手柄を立てて1000石となる。長篠合戦にも参加、石山合戦にも参加して2000石となる。この時代の戦闘ぶりは生き生きと書かれている。

この後に10両の名馬を千代のへそくりで購入する有名な物語が入り、一豊の名(評判)が知られる。

そして中国攻めに参加して、ここでも手柄を立てて、敵から名鑓を分捕る。本能寺の変があり、その弔い合戦では功名がなかったが、3000石となり、長浜城番を任じられるが、柴田勝家との戦いの前に、播州に移される。この時、千代の助言で京都に屋敷(実質は諸将の人質)を希望する。千代が政治力を教えるような形である。
柴田方についた瀧川方の伊勢亀山城を攻撃する。一番乗りを果たすが家来の五藤吉兵衛を失う。賤ヶ岳の戦いでも武功を挙げるが3500石になっただけで秀吉子飼いの清正、正則に比較して不満を持つ。

小牧長久手の戦い後に、秀吉の天下が固まった段階で長浜2万石になる。
この頃、京都で千代は唐織の端切れで、色の配合が面白い小袖を作って評判となる。これを無償で気に入った女性に与えてしまう態度であった。日本の服飾デザイナーの嚆矢である。

小田原攻めに秀次傘下の大名として参陣し、山中城攻めでも功を立てる。この後、掛川6万石になる。徳川家康への備えとして秀次傘下の大名が東海道筋に配置されたが、その一人である。

この頃、千代は徳川家康に関心を持ち、次の天下はこちらと思う。一豊は主筋の秀次の元に伺候するのが嫌になる。秀吉に世継ぎが生まれた後に、秀次は乱行に走り、秀吉に誅される。秀次妻女などの虐殺を聞いて、秀吉も耄碌してきたと千代は思う。

千代は、関ヶ原の前に石田方からの勧誘の手紙を封を切らずに小山の一豊の元に届ける。近江生まれの者を使いに出したので関所が通れる。これをそのまま家康に渡すようにと助言してあり、家康は感激する。
そして小山会議の席上、隣りの大名のアイデアを借りて、自分の掛川の城を提供すると申し出て、会議の空気を作る。これを家康は功として土佐24万石にする。関ヶ原の戦いでは南宮山の下に配され、大した働きがないまま終わる。

土佐では一領具足の反乱に悩まされ、相撲の興行にこと寄せて殺害するという汚点を残す。千代はこれには反対で、長宗我部の遺臣を家臣に加えるように進言するが、聞く耳をもたない。これが一豊の器量なのだと千代は思う。
高知城の建設は難工事だが、完成し、千代は一豊が逝去後は京都で暮らす。

千代の賢妻ぶりを強調して書いてあるが、千代の上司の気持ちを見抜くような気配りは面白い。

「幕末・維新~並列100年~ 日本史&世界史年表」山本博文監修

調べ物をするために紐解いた本であるが、参考になる面白い本である。「1.列強の接近」「2.幕末の動乱と国際情勢」「3.明治の日本に迫るロシア帝国」の3章に分けられている。年表だから、1800年のはじめから1900年までの約100年間を、見開きページで20年から5年程度ごとに日本史と世界史の年表を掲示し、そこに関係する事件や事件の背景などを記したコラムを配している。また時々の事件を読み解く鍵となる人間関係が記されたり、その時代のトピック的なことがらを整理したものもつけている。

1800年のはじめはナポレオンがヨーロッパを席巻した時期である。すなわち、これ以降、ヨーロッパにも国民国家の意識が出てくる。1821年ギリシャ独立運動、1831年にイタリアの統一運動が起こる。1839年にオランダがベルギーの独立を認める。ドイツも1862年にビスマルクがプロイセンの首相に就任して国がまとまってくる。
日本の明治維新なども世界史的流れとも思う。

そのナポレオン戦争時に、支配下に入ったオランダ船をイギリスが拿捕する事件が1808年のフェートン号事件である。この事件後も1824年にイギリス船が薩摩の宝島に上陸したりで1825年に異国船打ち払い令を出す。
しかし1842年アヘン戦争で大国の清が負けて南京条約が締結される。幕府は慌てて同年に薪水給与令を出す。水野忠邦の天保の改革の頃である。
中国では清の弱体化に伴い太平天国の乱が起こり、それは1864年まで続く。

アメリカはイギリスからの独立戦争が1814年。1846年に米墨戦争で、アメリカはカリフォルニアを獲得(太平洋岸に出る)。
1861年アメリカの南部州が南部連合。南北戦争。終結が1865年であり、両軍あわせて62万人の死者。終結後の武器が戊辰戦争時の日本に来たわけだ。その後、1869年に大陸横断鉄道。1897年にハワイ併合、1898年に米西戦争でスペインを破りフィリピンを領有と太平洋にどんどん勢力を伸ばしてくる。

1866年に薩長同盟が出来た時に、プロシャ・オーストリア戦争がはじまる。プロイセンの元込め銃による匍匐しての射撃が、オーストリアの先込め銃の立射を破る。そしてフランスも元込め式の銃を採用。第二次長州征伐で大村益次郎が、元込め式銃の散開戦術で幕府軍を破る。

ロシアは世界中で南下政策。1800年頃に日本に交易を求めに来ていた。1853年にはオスマン帝国とクリミヤ戦争(英仏も参戦)して1856年に集結する。この中古武器も流れるか。1858年に清とロシアは愛琿条約。クリミヤ戦争で地中海経由の南下が妨げられ、アジアに来る。1860年ウラジオストック建設。


日本の領土のことも参考になる。
小笠原諸島は米英の漂流民がいたが、咸臨丸で小笠原諸島の測量航海を行い、実測図をつくり文久2年(1862)に日本領と認めさせる。

沖縄に関しては、明治4年(1871)に台湾の琉球漁民殺害事件に抗議し、明治7年(1874)に台湾出兵。その後、イギリスの仲介により、清と互換条款を結び、賠償金を得る。琉球藩は清国との関係継続の嘆願を出していたが、明治政府は拒否して1879年に沖縄県を設置。明治12年(1879)にアメリカのグラント前大統領は日清修好条規の調停案で沖縄を二分した案を日本政府に提案。一方、清国は沖縄を三分して先島諸島を清、奄美諸島を日本領として、沖縄本島を独立させる案を提示。日本はグラント案(沖縄二分案)を了承するが、清が拒否する。そして日清戦争後の下関条約(1895)で日本の沖縄領有が確定する。
昔の沖縄の人は、中国にも属したいと思っていたのだ。貿易上の利であり、今の中国に属したいと思う人はいないだろうが、こういう歴史を忘れてはいけない。またアメリカは太平洋岸に出てから、ハワイ、フィリピンと来ており、終戦後は沖縄を占拠し、今も大きな基地を設けている。これもアメリカのムーブメントなのだ。