「兼好法師」小川剛生 著

吉田兼好の伝記を、信じられる史料を元にまとめている。新書と言えども専門的な本であり、基礎知識が無い私には難しい本であった。先年に「方丈記」を再読したが、「徒然草」の内容は忘れている。
兼好は通説では吉田神社の神職である卜部家に生まれ、朝廷で六位蔵人などに任じられた後に出家して徒然草を書くというものだが、これは吉田神道の吉田兼俱(室町期の文明・長享頃に活躍)が文書を捏造した結果である。兼俱は藤原定家も当時の吉田神道の弟子で歌道の奥義を得たとか、日蓮も吉田神道から仏の三十番神のことなどを学んだとかの文書を捏造した。卜部氏では平野流が嫡流であったので、吉田流の家格を高める為に捏造したようである。

実際の卜部兼好は、蒙古襲来の弘安の役後に誕生し、10歳くらいで一家は鎌倉に下向して、金沢流の北条氏に仕える。金沢は鎌倉の外港六浦の近くで重要な地である。元服して四郎太郎と名乗る。金沢貞顕が京都の六波羅探題に任じられ、その関係で鎌倉と京都の行き来もある。金沢文庫には古文書が保管されていて、仏典などを写経した裏に当時の手紙があり、その中に兼好の母のものと思われる手紙が見つかる。鎌倉幕府では京都との文書のやりとりなどで、卜部家のような京都の実務的な知識人も必要だったのであろう。

兼好は京都にいる時に蔵人所に属して、滝口あるいは雑色・所衆として内裏に仕えた可能性もあるようだ。東山六波羅近辺に住む。山科に田畑を購入したという史料もある。その後、堀川家に遁世者として出入りし、和歌の分野で名を挙げる。遁世者は身分差をクリアすることができる。かたわら徒然草を執筆。鎌倉幕府が滅んだ時点で50歳前後である。歌人として暮らし、尊氏執事の高師直との関係も生まれる。70歳代後半に逝去する。
鎌倉幕府の六波羅探題には京都の公家衆や宗教関係者も多く出入りし、これが兼好の人間関係を広げる。

兼好は和歌の世界では二条流の四天王の一人として評価されていた。この本では関係して、和歌の世界のことにも触れられていて興味深い。二条流は昔(新古今和歌集など)の歌を本歌取りして作るのが主で、こうすることが当時の共通言語(共通の感情を伝えられる)のような感じであった。他に冷泉流、京極流というのが生まれる。いずれも藤原俊成→定家→為家に連なる家である。京極家の歌は自由な発想や古歌にとらわれない表現があり、現代ではこちらの方が評価が高い。