「司馬遼太郎全集32 評論随筆集」から「竜馬がゆく」あとがぎ 司馬遼太郎 著

「「竜馬がゆく」あとがき」は、全集では別巻に収められている。刊行した時の単行本の数から、「あとがき」は1から5まである。
「あとがき1」では、薩長連合、大政奉還を独りでやった坂本竜馬を書こうと思っていたことを回想し、竜馬が千葉道場でもらった北辰一刀流の免許皆伝の伝書を高知県庁で見たことを記している。

「あとがき2」は日本史が所有している「青春」の中で、世界のどの民族の前に出しても十分に共感を呼ぶのは坂本竜馬の「青春」だと述べている。明るく、陽気で、人に好かれた竜馬だが、ここで凄みのある竜馬の語録をいくつか紹介している。例えば「義理などは夢にも思うことなかれ、身を縛られるるものなり」「衆人みな善をなさば我一人悪をなせ。天下のことみなしかり」などである。

「あとがき3」では家老福岡家の足軽をつとめた家の子孫が、竜馬に出会ったことがある祖母の話を紹介している。そして竜馬が小さい時は水泳が好きだったことや、18歳の時に念力で神を現出するという者を懲らしめた話や、神戸塾の時に広井磐之助という同郷の若者の仇討ちを助けた話を紹介している。

「あとがき4」では長崎で亀山社中の跡地を見た話と、勝海舟の長崎時代のエピソードを紹介している。勝が長崎に来てた時に懇ろになった小谷野家のおくまとの間で子ができ、梅太郎と名付けられる。おくまは梅太郎を生んだ翌々年に逝去し、梅太郎は15歳の時に勝家に来たが、ほどなく病没したそうだ。

「あとがき5」では竜馬暗殺のことについて詳しく記し、それから小説な中に登場した人物のその後を書いている。
 大正4年になり、渡辺一郎(旧幕時代は渡辺篤、吉太郎)という老人が懺悔をしたいと言う。その内容が竜馬を殺したのは自分であるという。ただし、つじつまの会わないところもあった。
 竜馬暗殺は、当初は新撰組のしわざと考えられた。当時、現場にいち早く駆けつけた谷干城は、伊東甲子太郎が残された鞘は新撰組の原田左之助のものと証言し、中岡も重傷の口で「こなくそ」と下手人が述べたと証言する。これは原田の出身地の伊豫の言葉である。近藤勇に問いただすが、知らないと言う。
 この内、紀州藩の用人三浦休太郎がいろは丸事件を根にもっての犯行ではと疑う。この為、陸奥や十津川郷士の中井庄五郎が斬り込む。
 勝海舟は幕府の目付の榎本対馬守道章(榎本武揚とは無関係)のことを疑っていた。。
 維新後にも調べは続き、大石鍬次郎があれは新撰組ではなく見廻組のしわざで、今井信郎、高橋某のことを近藤が褒めていたと述べる。
 今井信郎の孫の今井幸彦が書いた本によると、取り調べられた今井は自分も下手人の一人と述べる。そして見張りをしただけと述べる。それで軽い刑を受けることになった。今井の話によると刺客は佐々木唯三郎、今井信郎、渡辺吉太郎、高橋安次郎(前述した懺悔の老人)、桂隼之助、土肥仲蔵、桜井大三郎である。
佐々木は組頭として、周到に計画した。暗殺の日の昼過ぎに、桂隼之助に近江屋を訪問させて「坂本先生はご在宅でしょうか」と言う。近江屋は「今は他行中です」と答える。この後、夜9時過ぎに佐々木が「十津川郷士」の名刺を出し、殺害に至る。

 これは「あとがき」には書かれていないが、私の知人の相川司氏は、氏の著作の中で「竜馬は寺田屋で幕吏に短銃を放ち、殺しており、それを治安当局が捕殺しようとしただけ」と書いて、暗殺の背景に関する種々の憶測を否定しており、私もそうだと思っている。

 おりょうのその後も記している。三吉慎蔵の主君の長府候が扶持米をだす。その後、海援隊が高知の坂本家に届ける。乙女と合わずに家を出るとの伝承もあるが、おりょうの回想によると、そのような不仲のことは書かれていない。それから故郷の京都に出る。その後放浪の末に横須賀に住み、人の妾になり、明治39年に66歳で死ぬ。

 乙女は竜馬からの手紙をすべて残していた。明治12年に48歳で死ぬ。
 千葉さな子は維新後華族女学校の世話などをして独身だった。自分は坂本竜馬の許嫁と言ったことがあるそうだ。

 維新後に後藤象次郎は土佐藩の船など11隻を藩の負債と一緒に岩崎弥太郎に渡す。岩崎はこれで三菱商会を創る。

 竜馬のことは忘れ去れていたが、日露戦争の時に昭憲皇后の枕元に立ち、バルチック艦隊に勝つと言った男が話題となり、田中光顕が坂本竜馬と特定する。
 由利公正は五カ条のご誓文を起草する。