宗吾霊堂

 ここは、江戸時代の義民佐倉惣五郎を祭った御堂である。真言宗の寺院で東勝寺と言う。知られていないが、あの有名な成田山新勝寺は、東勝寺に対して新しいから新勝寺と名付けられているのである。

 京成線の宗吾参道駅から、坂道をだらだらと登って、歩いて15分程度である。広大な寺域で、仁王門、鐘楼、本堂、奥の院、薬師堂、大本坊(宿坊)などいくつもの建物があるが、それぞれ、そんなに古いものは無いようである。奥の方には成田市の戦没者慰霊塔が建立されている。
 仁王門には、金色の二王像が鎮座されていた。梵鐘や、この二王像は彫金家の香取秀真、香取正彦の作のようだ。

 奥の方には各種のアジサイが植えられていて、季節になるとさぞや見事なことと思われる。寺の御堂や、惣五郎の資料館等はコロナウィルス騒動の影響で、閉館中であった。

 義民佐倉惣五郎とは、江戸時代の前期の4代家綱将軍の時に、当時の飢饉と佐倉藩堀田家の苛斂誅求の年貢取り立て等の悪政に対して、木内惣五郎を代表にして6人の名主が藩に訴え、それでも改善されなかったので惣五郎が幕府に直訴した事件である。
 これが認められるが、惣五郎と子ども達は直訴の責任を取って1653年に殺される。もちろん、農民はこの義挙に感謝する。

 堀田家初代正盛は家光逝去時に殉死し、この時は2代正信であった。この正信は自分の藩がこのような悪政を布いていたが、変わった男で「幕府の失政により、人民や旗本・御家人が窮乏しており、それを救うために自らの領地を返上する」と唱える。狂人扱いとなり、改易される。
 18世紀半ばに堀田家は佐倉に戻るが、佐倉の住民が惣五郎の祟りで堀田家は改易されたという悪評を気にして、ここに御堂を建てたということである。

 ここにある惣五郎の記念館等にもコロナウィルス騒動で入れなかったから、私が記した内容に違うところも懸念されるが、大筋は間違っていないはずだ。

 このような事件は佐倉藩堀田家に限らず、江戸時代には多かったようだが、ほとんどは施政者側が闇から闇に葬り去り、世に知られていないと、何かの本で読んだ記憶がある。
 たまたま佐倉藩はこの事件後に改易となり、また同じ旧領に舞い戻ってきたことから、領民慰撫の為に惣五郎を祭るようになり、現在に伝わっているわけである。

 下総台地は佐倉の城下もそうだし、成田山もそうだが、意外と地形の起伏が多いところだ。