「放浪の天才画家 長谷川利行展」図録

 このカタログは地元の絵好きな知人からお借りしたものだ。私が去年の暮れに長谷川利行の作品に御縁があったことを話していたからである。
 頁を括っていくと、なんと私が購入したデッサンが所載されているではないか。購入した時、板橋区立美術館で開催時のカタログに所載されていることは承知していたが、驚いた。
 考えてみれば、この絵の額裏には、昭和51年2月に日本橋三越で開催された「長谷川利行展」(主催毎日新聞社、後援文化庁・東京都教育委員会)の出品シールが貼付されているのだ。出品されて、カタログに収録されているのは当然なのだ。

 この展覧会図録には、熊谷守一、中曽根康弘、東山魁夷、中村歌右衛門、山岡荘八、木村武雄(政治家で木村東介の弟)、東郷青児、小幡欣治、森光子、渥美清、緒形拳、矢野文夫、木村東介(羽黒洞)、小倉忠夫(美術評論家)が推薦者になり、それぞれ一文を寄せている。これら人々の評は面白く、以下に簡単に紹介する。

小倉忠夫(美術評論家)は、長谷川の作品を詩精神と感性がさまざまなモチーフを機縁として、色彩とフォルムの交響のうちに流露した感が濃いもので、広義の表現主義とする。そしてヨーロッパのフォーヴィズム(さらにユトリロのような独自の詩的な生活感情、ないし抒情もある)、東洋の文人画(歌人で歌集も出し、祖父、父も俳人)、ナイーヴな児童画の要素が相互に通底しあって、利行の自由にして奔放かつ純な魂において、ひとつに融和統合されると書く。

 熊谷守一は当時から長谷川の理解者であり、利行の思い出を書き、あれで結構名誉も金も欲しがっていたと書く。そして安井曾太郎に嫌われていたことを記し、あの時代が生んだ特異な才能と評価する。

 中曽根康弘は、今の金持ちに迎合する幇間的な画家ではなく庶民大衆に根ざしているとして事務所と応接間に飾って、心の糧にしていると書いており、見直した。

 東山魁夷は昭和23年に出向いた展覧会で利行の裸婦の小品と赤い家の作品2点を買ったことを記す。孤独感と寂寥感をたてた中に素純なものが光ると書いている。

 中村歌右衛門は今は所有してないが、一時は持っており、緑の線の中の水泳ぎ少女の絵などはどうしてあんなに瑞々しい感覚が絵の中にいつまでも残っているのか不思議で、彼の絵のように芸術は時代の先に行くべきで、自分も意識していると書く。

 山岡荘八は雑誌編集長時代に知人の画家に挿絵を頼みにいく。そこで長谷川に会い、彼の絵を褒めたら、その場でくれたとの思い出を書く。その内天城俊彦が埋もれた天才画家を発見したと来る。利行の歌も卓抜していたと記す。

 木村武雄(政治家で木村東介の弟)は戦時下、兄が利行の絵を疎開させていたのを覚えていた。中曽根に展覧会に誘われた時に、そこに兄が疎開させていた絵があり、懐かしさを覚えると同時に、貴人富豪に縁のない絵を大切にした利行のように政治に向かいたいと記す。

 東郷青児は、はじめて利行を認めた正宗得三郎先生の思い出を記す。また長谷川の破天荒な私生活には悩まされた思い出。たとえば玄関で絵を買わないと帰らず、また後にあの絵を手直ししたいと持ち出し、どこかに転売する。不潔で行儀が悪いが、目は澄んでいた。警察に無銭飲食のもらい下げにいったこともあるそうだ。

 森光子はマチスのように色鮮やかで、ユトリロのように寂しい。それで厳然と日本人の世界がある。人物が静物のようで、それに深い世界がある。荒涼と寂しく、しかも強烈な意志があると評する。

 渥美清は仕事がなく鬱々してしていた時に観た利行の田端機関庫の絵がいつまでも忘れられないと記す。

 矢野文夫は利行の青春を探り、書いている。和歌山湯浅の耐久中学の同窓生を探し、利行が紅顔可憐で眉目が美しいとの思い出を引き出している。恋人がいたと推測している。それを裏付ける歌がある。妻と子もいたことを歌から推測している。

 木村東介(羽黒洞)は利行の放浪生活を記し、自身も羅漢尊者のように荘厳な人物像を描いて、民族の中に不滅の芸術を残したと高く評価する。