「宮本武蔵」 司馬遼太郎著

 冒頭は「街道をゆく」みたいな調子で、武蔵の故郷、作州讃甘郷(さなも)郷宮本村を訪れ、そこで武蔵と同姓の新免さんに出会ったりする。
 播州との境で、母は播州人という想定である。本来は平田が姓で、平田無二斎の子として生まれる。ここ一帯の領主は新免伊賀守という。無二斎は地下牢人だったが、若い時は将軍義昭の御前試合で十手術で吉岡憲法から3本のうち2本をとっている経歴を持つ。
 父も武芸者で当初は父から学ぶというのは千葉周作と同じである。また武蔵の体格が大きかったことも千葉周作と同じである。
 この父から武芸を学ぶが、父とはうまくいかなかったという伝承を書いていく。

 13歳の時に有馬喜兵衛という兵法者を打ち殺す。五輪書には16歳で但馬で兵法者に勝つと記されている。
 17歳で関ヶ原の戦いに宇喜多家で参陣するが、新免家の者と一緒に大坂に逃げ、九州の黒田官兵衛を頼る。あっさりと書いている。

 21歳で都に出る。ここで室町幕府兵法所の吉岡憲法一門と戦う。吉岡清十郎、弟の伝七郎と倒し、一乗寺の下り松で戦う。観てきたように戦いの様子を記述する。
 奈良で宝蔵院流の槍と戦い、ここで二刀流のヒントを得る(父の十手術の影響もある)。敗者の宝蔵院は武蔵に怨みを持たず、奈良で滞在。奈良、京都での見学で武蔵の芸術的センスは磨かれたと書く。

 次ぎに伊賀で鎖鎌の宍戸梅軒と試合をして斃す。試合ごとに武蔵が編み出した剣術の形(ここでは三心刀)を説明していく。

 江戸に出向き、ここで知名の人と交際したり、武器を作ったりもする。そこに夢想権之助の杖術と試合をする。武蔵はこの人にも恨まれずに後に九州で交誼を続けた。
 槍、鎖鎌、杖という異種の武器との戦いや、父の十手術などが、二刀流の元になっていると読者に示していく。

 新免家の者は関ヶ原の敗戦で九州に逃れ、黒田官兵衛に頼るが、全員が仕官できず、後に小倉を領した細川家に仕えていた者が多い。細川藩には兵法指南佐々木小次郎がおり、傲慢な性格で嫌われており、新免家ゆかりの家中の者は小次郎との試合を望む。すぐには武蔵は試合をせずに京で禅に関心を寄せる。また小次郎の情報を集める。
 新免衆は家老・長岡佐渡に仕えており、巌流島での決闘に進んでいく。小次郎と戦う前に小次郎の姿を見るような場面も入れている。

 この後、姫路城下で三宅軍兵衛という兵法者と戦う。三宅は後に武蔵に傾倒する。
 また大坂の陣に豊臣方で参戦したとの伝承もあるが詳細はわからない。この小説でももちろん書いていない。

 江戸で軍学者として名高い北条安房守の知遇を得る。このように武蔵の世渡りが上手というと語弊があるが、兵法者でありながら人に嫌われない性格を示している。
 将軍家に3千石で仕官という望みを持つが叶えられない。当時の兵法者は200石から600石程度である。将として戦をしてみたいと思ったのかもしれない。
 次ぎに尾張徳川家での仕官も望むが、ここには柳生兵庫助がいて路上で武蔵とすれ違い互いを知るような書き方である。そして藩主に武蔵の剣は教える剣ではないと進言する。

 晩年の57歳時に肥後細川家が客分として17人扶持300石で迎え入れる。そして62歳で逝去。

 吉川英治はお通という女性を登場させるが、司馬遼太郎としては珍しく女性が出て来ない小説に仕立てている。吉川英治のお通さんのイメージにかなわないと思ったのかもしれない。
 武蔵の芸術面に触れたのは斬新だと思う。ただし、その才能が開花した由縁は説明できていないが。

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