「もっと知りたい茨城県の歴史」小和田哲男 監修

今、ちょっとモノを書いており、読む方は調べることが中心になっている。この本は郷土史的な本であり、興味深いところがある。大きく茨城県の史跡、信仰、事件、人物、文化・生活に分けて記述されている。

 「史跡」では、次のようなことが記されている。
 古代の常陸は新治、筑波、茨城、那珂、久慈、多那の国に別れていたそうで、筑西市の葦間山古墳は完全には残っていないが復元長は141㍍もあり、新治郡(当時は国)の国造の墓ではないかとされている。
 また舟塚山古墳は石岡市にあり、全長186㍍もあり、関東地方では天神山古墳(群馬県太田市)に次ぐ古墳であり、こちらは古代の茨城国である。

 中世になるが、結城17代晴朝は秀吉の猶子を秀康を養子にして家の存続を図る。秀康は天正18年に城下を拡張して御朱印堀と呼ばれる空堀の内側は地子税免除の町人町とするが、慶長6年に越前に移封され、結城氏は父祖の地を離れることになる。

 古河公方がいた古河は常陸、武蔵、上野、下野の接触点にある地で、利根川と渡良瀬川の水運が使えた場所である。この頃の川筋と今は違うから、当時の川筋を理解していないと、地勢がわからないところがある。

 徳川時代になると、関東郡代の伊奈氏が忠次、忠治の2代にわたり関東の民政に力を注ぐことになる。この人物は評価されるべき人だ。備前守忠次は灌漑用水路を堀り、各地に伊奈堀、備前堀と称されるものが残っている。忠治は利根川の東遷したり、つくばみらい市付近で一つになっていた小貝川と鬼怒川を分流して谷原地区の新田開発の道をつけた。

 時代は下るが、今は水戸市に含まれる内原町に内原訓練所がある。ここは昭和2年に設立された西茨城郡宍戸町(現笠間町)の日本国民高等学校が前身である。昭和10年に内原に移転し、昭和12年に満蒙開拓青少年内原訓練所が創設され、全国の農民の次男、三男を対象として、約2ヶ月間の訓練を経て、満州に入植するための準備を行う。結果として86500人余が満蒙に出向き、多くは帰らぬ人となる。棄民したと言われてもしかたがない。

 「信仰」も面白い。親鸞が常陸に縁があり、笠間市稲田の稲田草庵(西念寺)で20余年過ごす。ここで過ごすに至った経緯は諸説があって不明だが、下野の有力者:宇都宮頼綱の所領が笠間郡にあった為という説をこの本では取り上げている。

 法然の浄土宗を天台宗から独立させたのは常陸出身の聖冏(しょうげい)とのことである。久慈郡岩瀬城の城主白石義光の子で浄土宗の教義を明確にし、戒律の触れた書物などを著す。

 また夢想疎石が佐竹義継を弟子にして臨済宗を広める。画家の雪村も臨済集の画僧である。
 また徳川斉昭が明治の廃仏毀釈を先取りするような政策を打ち出したが、寛永寺などが幕府の有力者、大奥に働きかけて潰される。
 水戸藩の内部抗争は有名というか、あきれるほどに激越なもので、この為に、尊皇攘夷の魁となったので、明治期に活躍した人物が出なかったわけだが、明治になってからも山岳党(県北出身)と河川党(県南・県西出身)が県議会で争ったとある。なお水戸藩の内紛時には斉昭・藩内改革派側と長男慶篤・結城寅寿の門閥派側では書簡の内容が漏れることを恐れて、神発仮名という暗号を使っていたようだ。

 塚原卜伝は鹿島神宮の祝部の卜部覚賢で、近くの塚原城の城主の養子となる。卜部家は「鹿島の太刀」という古くから伝わる剣術を代々継承していた。

 江戸時代後期に江戸の漢詩壇で活躍したのが大窪詩仏(医師)で、59歳の時に秋田藩に招かれ江戸藩校の教授となる。土浦の町人学者の沼尻墨僲は地球儀を作る。古河藩土井家の4代土井利位は雪の結晶の研究に打ち込む。『雪華図説』を著す。

 あんぱんをつくった木村安兵衛は常陸田宮村(牛久市田宮町)に生まれる。横山大観は水戸藩士の酒井捨彦の長男として生まれる。

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