「なぜ日本はフジタを捨てたのか?」富田芳和 著

副題に「藤田嗣治とフランク・シャーマン1945~1949」とあるように、フランク・エドワード・シャーマンというボストン生まれの占領軍将校が残した資料をもとに、終戦後にフジタが海外に出向くいきさつをまとめている。

フランク・シャーマン(1917~1991)は少年の頃に画家になろうとしていた。パリに短期留学した時にモンパルナスでフジタを見かけたという思い出を持っていた。
太平洋戦争時に徴兵を受け、陸軍工兵科第64地形図技術工兵大隊に入隊。1945年11月に占領軍の兵士として来日。中国大陸の詳細な地図作りにおける印刷スペシャリストとして勤務。そこで同郷のバンカー大佐から日本の民主化の為には芸術家も必要で、その支援をすることも命じられる。そして凸版印刷にオフィスを与えられる。のちにシャーマン・ルームと呼ばれるサロンを設け、そこに文化人(画家、歌手、作曲家、邦楽家、写真家、茶道家など)を招待したパーティを催していた。

シャーマンは凸版の関係者から向井潤吉に会い、紹介状を貰って昭和21年(1946)フジタに会う。そしてフジタもシャーマンの思いや人柄を信頼して親交を深めていく。一緒に骨董店を廻ったこと、京都旅行のことなどフジタの人柄が出た楽しい記述が続く。フジタは職人の仕事の細かいところを観察している。この職人仕事の吸収がフジタの画業を世界的にした一因であることがわかる。裁縫や額縁作りなどにも腕をふるう。

話は変わるが、日本の美術界は、昭和19年に美校改革があり、結城素明、小林萬吾、田辺至、伊原宇三郎などの戦争画を画いていた画家が追われた。そして小林古径、安井曾太郎、梅原龍三郎などが教授となる。後押ししたのが細川護立侯爵で、児島喜久雄、横山大観などだった。反フジタの勢力であった。なお大観は戦争画は画かなかったが、戦意昂揚の催しなどには積極的だった。

フジタは昭和19年に神奈川県津久井郡小渕村藤野に疎開した。藤野にはフジタを慕って猪熊弦一郎、佐藤慶、脇田和、中西利雄、伊勢正義、荻須高徳、三岸節子らが疎開する。彼等は新制作派協会を設立する。
終戦後、フジタは戦争画や軍に協力した資料を焼いたとされているが、これは誤解である。フジタは世界を知っていたから自分の戦争画が海外で賞賛されると見込んでいた。「アッツ島玉砕」は戦意昂揚とはほど遠い絵で軍部は困ったが、鑑賞者は自分の身内を絵の中に見出し、置かれた賽銭箱に賽銭を投じて、花が備えられ手を合わせたという。フジタもドラクロアのジャンヌダルクの絵に匹敵すると自負していたようだ。ただしフジタはチャンバラ絵と称したような戦争画も画いていた。

戦争が終わった後に、工兵局美術班長のミラー大尉が日本の戦争画制作者の氏名とその保管場所の調査をしていた。別に戦争協力者として摘発する目的ではなかった。彼はフジタが疎開していた藤野に出向き、その仕事を依頼し、フジタが引き受ける。

昭和21年に東京都美術館で集めた戦争画がGHQ関係者に展示されたがケーシー少将は芸術的に高いものがあるとの意見であったが、部下のシャーマン・リーは自分の見解をまとめるに当たり、親しい日本の画家の横山、安井、梅原の助言を参考にし、戦争の宣伝の為の絵に過ぎないと論評した。そこでケーシー少将は結論を先送りして、これらの絵画は20年間、アメリカの倉庫で保管されることになる。

1946年に軍国主義者の公職追放が始まる。政界財界だけでなく文化人にも及ぶ。宮田重雄がフジタや猪熊を攻撃する。新制作派協会で、フジタと親しかった内田厳が共産党のシンパで、日本民主主義文化連盟の戦犯リストを持ってきて、フジタをリストに入れたことを連絡してくる。横山大観や川端龍子などはあったが、新制作派協会の作家は除かれていた。お先棒をかついだ内田自身は悩んだようだが、フジタは哀れんでいる。君代夫人は内田の裏切りを許さなかった。

日本の美術界のフジタ排斥の状況や君代夫人のヒステリー症状を見て、シャーマンはフジタを渡米させようと動く。ドルの獲得方法として、アメリカの画廊での個展を企画する。またその後の生活の為に、アメリカの大学での教授の口などを探す。マッカーサー夫人の依頼での講演なども好評だった。

アメリカでフジタの展覧会を知ったベン・シャーン(リトアニア生まれのユダヤ人)は「ファシストを許すな」として反対キャンペーンを展開する。国吉康雄はフジタに恩義もあるが自分の立場からベン・シャーンに協調する。
フランク・シャーマンはこの動きに危機を感じ、マッカーサー夫人の依頼のクリスマスカードの制作や講演をフジタに依頼する。そしてマッカーサーから、アメリカがフジタを招待することにしてもらいビザ発給にこぎ着ける。1949年にフジタは「けんかはやめてください。国際水準になる絵を描いてください」と言って飛び立つ。

フジタを排斥した日本の美術界は、その後、多くの「巨匠」「人気作家」「重鎮」を招き入れて巨大化し、ガラパゴス的美術市場(世界で通用しない)を作る。アメリカでベン・シャーンなどの運動にも嫌気がして、1950年にアメリカからフランスに飛び立つ。

シャーマンの残した資料は親交のあった河村泳静氏が預かり、氏から北海道伊達市の教育委員会に預けられているとのことである。

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この記事へのコメント

WJ
2020年02月05日 23:33
表題と関係なくて大変恐縮なのですが、"肥後遠山派の活躍時代"は手持ちの遠山鍔の鑑賞の際に大いに参考にさせていただきました。この場を借りて、貴重な情報を公開してくださった事を深謝いたします。