「アウトローと呼ばれた画家 評伝 長谷川利行」吉田和正 著

長谷川利行の評伝である。伝記的な部分や、長谷川の奇行のことなどは、これまで読んだ本や画集の解説記事などと同様だが、長谷川の謎の青年時代(京都時代)のことをよく調べている。またこの時に熱中していたのが歌であり、その歌の整理などはうまく書けている。
本は次のような章立てになっている。「1.空白と謎にみちた少・青年時代」「2.生きることは絵を描くことに値するか」「3.無頼と奇行」「4.天城画廊と長谷川利行」「5.行路病者・長谷川利行・胃癌」「6.利行の死と作品の急騰」である。

「1.空白と謎にみちた少・青年時代」では、父方の祖父軍二は58の歳に淀藩に6石5斗2人扶持で召し抱えられる。この石高では軽輩の下士である。俳句を嗜む風雅な人で和歌山に縁があったようだ。父は利其で伏見警察署に勤務しており、利行を偏愛したようである。
なお長谷川家の長男利一は数学、スポーツが得意で、利行の前に和歌山の耐久中学に入り、人目をひく男だったが、早くに亡くなる。もう一人の男子も夭折する。母は淀藩の御殿医の血をひいていた。
利行は、早くから書物に親しみ、父から可愛がられる。淀下津町の高等小学校を出て明治40年に兄の通っていた和歌山県湯浅町の耐久中学に入学。
当時、利行は水彩画を習っていた。師は当時の水彩画界では高名な大下藤次郎である。また文学や詩に親しんでおり、中学時代に同人誌を発行している。しかし理由は不明だが中退する。失恋したからとも噂される。
それから29歳で上京するまでが謎である。水彩画を習って、どこかの学校に通う。大下藤次郎が急逝後に水彩画を離れる。なお当時の長谷川には妻子があったとも言われている。幾人かの証言と、長谷川の短歌からも妻子の存在が窺われる。
大正8年に雑誌に短歌を投稿して所載される。特選の常連となる。京都市内を次から次へと転居。歌人の生田蝶介が選者であった。当時の短歌は、繊細で澄んだ心の動きを抒情的に調べ高く歌いあげたものである。そして大正8年に『木葦集』という私家版の歌集をだす。
大正9年に生田蝶介を頼り上京。小説も書くが評判を得られなかった。後に生田氏と訣別する。
大正12年に関東大震災に遭遇する。この時の短歌がある。
絵は新光洋画第1回展に「田端変電所」が入選。時に32歳であった。

以降から第2章以下になるが、昭和2年の第14回二科展で樗牛賞を受賞する。この時に強く推奨したのは正宗得三郎や有島生馬などである。なお当時の画壇の中では里見勝蔵や熊谷守一は利行の才能を認めるが、梅原龍三郎、安田靫彦などの多くの画家は嫌っていた。
ここから、貧困と無頼に流れ、酒乱と奇行の13年の画家人生が始まる。1930年協会奨励賞を受賞する。
一方で絵の押し売りをしているなどの評判も立つ。この頃に矢野文夫と親交を持つ。矢野と中学同級の熊谷登久平(画家、後に断交)とも知り合う。矢野とは深い付き合いになるが、後に矢野の背広を無断で質に入れてしまい、一時期疎遠となる。しばらく後に手塚一夫とも一時期同居するが愛想をつかされる。長谷川の才能を認めても、生活態度などから付き合っておられないのだと思う。
また靉光などと知り合う。画家仲間(大野五郎、寺田政明、井上長三郎)との交流もある。

高崎正男こと天城俊彦は作家志望の男だが、売れず、壮絶な人生を送っていた。ただ高崎は長谷川の絵を認め、長谷川の絵を売ることに努める。後には長谷川を監禁するように絵を画かしたと悪評も立つが、長谷川の才能を認めた男である。

利行のパトロンには医者が多かったと書いてある。父が逝去後、長谷川も胃癌が悪化して路上で行き倒れる。そして昭和15年に東京市養育院に収容され、逝去する。
最期まで大事にした行李も処分され、遺骨は高崎正男が引き取るが、東京の空襲時に飛散する。しかし後に高崎の夫人がその一部(空襲後に高崎が拾い集めたもの)を保管していたことがわかり、菩提寺に埋葬。