「幕末史 かく流れゆく」中村彰彦 著

 著者は学者ではないが、会津藩のことや幕末史で多くの著書を上梓されている。この本は幕末に起きた事件を105の章に分けてわかりやすい文章で記されている。章ごとの文章は短いが、その短い文章の中で、要点を記されていて、幕末史を網羅的に知るのにはいい本である。もちろん、著者が大事と思う事件、関心を持った事件が中心であり、人によっては違和感を持つこともあるだろう。
 まず著者は幕末を、天保12年(1841)に一度出した幕命(川越藩、庄内藩、長岡藩の三方領地替え令を撤回したこと、すなわち幕府の弱体化が始まった時点からとの意見である。一般的には、幕末は嘉永6年(1853)にペリーが浦賀に来航した時からとされている。そして幕末の終了を著者は明治10年(1877)に西南戦争が終結するまでとしている。

この本ではここまで書いていないが、日本が欧米列強の植民地にならなかったのは英仏の間にアメリカという緩衝材的な国が入ったこと。それから英仏のロシアとのクリミヤ戦争(1853~56)、中国でのアロー号事件(1856~60)、アメリカの南北戦争(1861~65)などのタイミングなのだと感じる。

それから廃藩置県などがスムーズにできたことも不思議である。近衛兵を作ったこと、華族制度という名誉を作ったことなどが記されているが、武士というものが利欲に恬淡なのも一因ではなかろうか。

阿部正弘を高く評価する人が多いが、著者は自分の考えがない優柔不断なタイプと見る。ぶらかし策という先送りで対処しようとしたことも書いている。ただ、阿部正弘が老中の時に幕府の秀才川路聖謨、筒井政憲、井上清直、岩瀬忠震などの優秀な役人を登用していることは著者も評価している。

水戸藩というより徳川斉昭の強烈な個性と水戸藩の性格、井伊直弼の育ちや彦根藩の性格からも生じている個性のぶつかり。これは一橋派と南紀派の対立となる。

孝明天皇は徹底した異国嫌い、そして幕府よりの姿勢。この天皇の死を著者は岩倉一派による毒殺と考えている。

なお暗殺という言葉は、従来の日本語には無く、闇討ちではなく暗殺になったのは英語のアサシネイトに由来するというのはなるほどである。

著者は西郷隆盛に常に暴力的、謀略家として批判的である。徳川慶喜についても「ああ言えば、こう言う」の口だけ、それも二枚舌として批判的である。

「森山良子コンサート」於市川市文化会館

歌謡曲のコンサートは坂本冬美の時以来だ。もっとも森山良子は歌謡曲と分類していいのか迷う。19歳でデビューした時の歌「この広い野原いっぱい」はフォークソングのジャンルであった。私が好きな「さとうきび畑」は反戦フォークの一つなのか、よくわからない。ニューミュージックというジャンルなのだろうか。もちろん、音楽のジャンルなどどうでもいい。このコンサートでも「涙そうそう」に次いで歌ったが、私はこの歌唱が一番良かった。しみじみと聴き入ってしまった。

50年以上、歌手として活躍されて70歳台になられたようだが、物凄い声量だ。また高齢になると、高い音は出にくくなるとされているが、そんなことはなく、見事なものだ。
ただこのホールの音響に問題があるのか、少し歌詞が聴き取りにくいこともあった。また、歌に合わせて背景のスクリーンに映像が出るが、抽象的な模様はいいとしても、この映像が少し手を抜いているのかなとも感じた。

多くの歌を披露されたが、デビュー曲も含めて、若い時の自分の歌から、他の方が歌われたヒット曲なども歌われた。自分のアルバムに入っているが、世間では注目されないものの、ご本人が思い入れのある歌として「あやとり」と「家族写真」という曲も歌われる。
また最近はクラッシックに歌詞を付けて歌うこともされていて、2曲ほど披露される。「小犬のワルツ」はピアノに合わせて早口言葉のように歌い、驚く。よく口が回るものだとも思った。そのような歌を集めたCDも出されているようだ。
アンコールではジャズの曲も披露されたが、音楽もご本人も生き生きしていて活力があり、ジャズらしい音楽だった。

合間、合間のトークもなかなかに巧みである。加齢ネタが多いが、観客も高齢者であり、観客席は盛り上がっていた。

「アウトローと呼ばれた画家 評伝 長谷川利行」吉田和正 著

長谷川利行の評伝である。伝記的な部分や、長谷川の奇行のことなどは、これまで読んだ本や画集の解説記事などと同様だが、長谷川の謎の青年時代(京都時代)のことをよく調べている。またこの時に熱中していたのが歌であり、その歌の整理などはうまく書けている。
本は次のような章立てになっている。「1.空白と謎にみちた少・青年時代」「2.生きることは絵を描くことに値するか」「3.無頼と奇行」「4.天城画廊と長谷川利行」「5.行路病者・長谷川利行・胃癌」「6.利行の死と作品の急騰」である。

「1.空白と謎にみちた少・青年時代」では、父方の祖父軍二は58の歳に淀藩に6石5斗2人扶持で召し抱えられる。この石高では軽輩の下士である。俳句を嗜む風雅な人で和歌山に縁があったようだ。父は利其で伏見警察署に勤務しており、利行を偏愛したようである。
なお長谷川家の長男利一は数学、スポーツが得意で、利行の前に和歌山の耐久中学に入り、人目をひく男だったが、早くに亡くなる。もう一人の男子も夭折する。母は淀藩の御殿医の血をひいていた。
利行は、早くから書物に親しみ、父から可愛がられる。淀下津町の高等小学校を出て明治40年に兄の通っていた和歌山県湯浅町の耐久中学に入学。
当時、利行は水彩画を習っていた。師は当時の水彩画界では高名な大下藤次郎である。また文学や詩に親しんでおり、中学時代に同人誌を発行している。しかし理由は不明だが中退する。失恋したからとも噂される。
それから29歳で上京するまでが謎である。水彩画を習って、どこかの学校に通う。大下藤次郎が急逝後に水彩画を離れる。なお当時の長谷川には妻子があったとも言われている。幾人かの証言と、長谷川の短歌からも妻子の存在が窺われる。
大正8年に雑誌に短歌を投稿して所載される。特選の常連となる。京都市内を次から次へと転居。歌人の生田蝶介が選者であった。当時の短歌は、繊細で澄んだ心の動きを抒情的に調べ高く歌いあげたものである。そして大正8年に『木葦集』という私家版の歌集をだす。
大正9年に生田蝶介を頼り上京。小説も書くが評判を得られなかった。後に生田氏と訣別する。
大正12年に関東大震災に遭遇する。この時の短歌がある。
絵は新光洋画第1回展に「田端変電所」が入選。時に32歳であった。

以降から第2章以下になるが、昭和2年の第14回二科展で樗牛賞を受賞する。この時に強く推奨したのは正宗得三郎や有島生馬などである。なお当時の画壇の中では里見勝蔵や熊谷守一は利行の才能を認めるが、梅原龍三郎、安田靫彦などの多くの画家は嫌っていた。
ここから、貧困と無頼に流れ、酒乱と奇行の13年の画家人生が始まる。1930年協会奨励賞を受賞する。
一方で絵の押し売りをしているなどの評判も立つ。この頃に矢野文夫と親交を持つ。矢野と中学同級の熊谷登久平(画家、後に断交)とも知り合う。矢野とは深い付き合いになるが、後に矢野の背広を無断で質に入れてしまい、一時期疎遠となる。しばらく後に手塚一夫とも一時期同居するが愛想をつかされる。長谷川の才能を認めても、生活態度などから付き合っておられないのだと思う。
また靉光などと知り合う。画家仲間(大野五郎、寺田政明、井上長三郎)との交流もある。

高崎正男こと天城俊彦は作家志望の男だが、売れず、壮絶な人生を送っていた。ただ高崎は長谷川の絵を認め、長谷川の絵を売ることに努める。後には長谷川を監禁するように絵を画かしたと悪評も立つが、長谷川の才能を認めた男である。

利行のパトロンには医者が多かったと書いてある。父が逝去後、長谷川も胃癌が悪化して路上で行き倒れる。そして昭和15年に東京市養育院に収容され、逝去する。
最期まで大事にした行李も処分され、遺骨は高崎正男が引き取るが、東京の空襲時に飛散する。しかし後に高崎の夫人がその一部(空襲後に高崎が拾い集めたもの)を保管していたことがわかり、菩提寺に埋葬。

「利休のかたち」展 於松屋銀座店

副題に「継承されるデザインと心」「松屋創業150周年記念」とある。千利休が使用したと伝承がある茶道具を展示して、その利休型とでも言うべき道具類を伝統を守りながら今に伝えている道具職人(千家十職と称されているが、この展示では茶碗の楽家、釜の大西家、漆芸の中村家)の道具類を展観している。

千利休の好みは”冷凍寂枯”とも称されているが、地味で優しい感じのものが多い。織部好みの”破調の美”、小堀遠州の”自然な雅”とは違う。なるほどと思ったのは千家再興を許された三代少安の子宗旦の道具も展示されていて、それは更に”寂枯”を追求しているように感じたことである。千家再興という意識が強かったのであろう。ただし宗旦の時代は、織部、遠州に続いて「姫宗和」と言われる金森宗和の時代に移っており、流行遅れになっていったのだと思う。楽茶碗の方は長次郎の作風から、少し華やかなものに変化している。

国宝の茶室待庵の映像や簡単な材料で復元したものが展示されていた。この復元はチーピーなものであり、展覧会のぶち壊しであり、無い方がよい。

赤楽茶碗の「白鷺」や黒楽茶碗の「万代屋黒」などの初代長次郎の作品は小ぶりで感じの良いものだ。
棗も優しい形の漆黒なものは、どこにでもあるようなものだが、何か惹きつけられるところがある。

創業150周年記念というほどには力が入っていない展覧会である。茶道具の展覧会は先年国立博物館でも開催されており、そういうのを観ているだけに内容の薄いものと感じた。美術と言うより茶道関係者に観てもらいたいという展覧会なのだろう。入口で和菓子付きの抹茶サービス(1000円)の受付をしていた。見ると会議室のような机を囲み、そこに客が10人以上座って茶が運ばれるのを待っていた。茶道の雰囲気もまったく感じられないもので、馬鹿にしている。デパートの外国人客の取り込み策であろうか。

「天下統一とシルバーラッシュ」本多博之 著

信長、秀吉、家康という中央政権が出来たことによる経済面への影響をまとめた本である。経済を動かす血液が貨幣であり、当時は銀が東アジア市場では統一貨幣だったわけである。

銀算出の中心が石見銀山であり、本格的な産出がはじまったのは大永7年からである。博多商人の神屋寿禎が関与する。精練技術の灰吹法は明から朝鮮をへて日本に伝わる。。石見銀山は16世紀半ばから17世紀前半が最盛期であり、ここでの産出・精練技術が日本各地に伝わる。

この銀が東アジアの貿易構造を変える。それまでのヨーロッパ人の交易は胡椒とキリスト教布教が中心であった。天文8年の大内氏遣明船が銀の使用のはじめで、同じ頃に朝鮮に銀を持ち込み、綿布を持ちかえる。博多商人が関与。中国商人やポルトガル商人の日本来航を促し、後期倭寇の活動が活発になる。西国大名は独自に貿易する。

折しも鉄砲が普及する。この為の火薬原料(硝石、硫黄)は輸入品であり、これを輸入する為に銀が重要となる。他に生糸、綿なども銀で輸入された。

京都に於ける金銀の流通は永禄の終わりから元亀年間を転換点として天正年間の前半に一挙に拡大。金を装飾に使ったり、唐物の蒐集に使う

織田政権は法定枡(京の十合枡)を天正2~3年頃に登場させる。米穀量に基づく石高が、種類によって価値が異なる銭額に基づく貫高よりも、知行宛行や軍役賦課の権力編成の価値尺度に有効と考える。(福建地方からの中国渡来銭の供給途絶もあるか。)

信長は金と銀の通貨としての使用を、銭との換算基準を示して公認。秀吉は重量と品位を政権として保証する法貨を天正15年から鋳造・発行。
文禄年間に米との相場が立つ。朝鮮出兵で米が必要になり、全国の流通網もできてくる。

そして秀吉は長崎を直轄領とし、海賊停止令を出す。
中央政権がない時は、大名・国人、商人は個々に主体的に経済活動。領国を越える船舶の安全保障に海賊がいた。見返りに通行料を払う。大名は国人に一定量の運上を収めることで鉱山経営の権利を保証される。戦国末期から織田政権下に金銀の国内流通は急速に活発。金を含め、貿易品も国内に流入。日本経済は東南アジア経済と連動する。

秀吉の統一政権は外交権の再統一をし、天正16年に海賊停止令を出す。天正15年に長崎を直轄にして輸入品の先買権を行使。日本人の海外渡航は禁止しない。朝鮮出兵は物流の一元化が進むきっかけとなる。

豊臣政権は国内の金銀鉱山の開発を積極的に進め、諸大名の鉱山領有を認めつつ、生産物の一部を上納させる。文禄・慶長年間に金銀の社会浸透が進む。大都市では年貢米が売却されて金銀に換金される貢租換金市場となる。各大名は鉱山があれば収奪を強化、無い場合は九州大名などは海外、フィリピン貿易でまかなう。政権は朱印状で制限し、ルソン壺の独占購入などの貿易政策をすすめる。5大老の体制下では徳川家康が外交権を掌握していく。
関ヶ原後に徳川による国内主要金銀鉱山の接収。家康は慶長6年に慶長金銀を鋳造。金貨は武田の甲州金の四進法(両、分、朱)を採用。甲州出身の大久保長安の影響か。

慶長14年に平戸にオランダ商館。銀が輸出され、主にアジアの生糸などが輸入。寛永12~18年には銀が大量に輸出され、幕府は銀輸出を抑え、銅や小判の輸出を認める。応益には灰吹銀(高品位)ではなく丁銀(品位80%)の使用を命じる。キリスト教の禁令強化の中、通商は縮小、朱印船貿易は減少。寛永12年に日本人と渡航と帰国が禁止。寛文8年幕府は銀の輸出を禁じる。寛文11年には中国舟には丁銀の輸出を認める。寛永通宝が広まり、近世三貨制度が成立。

「佐藤優子 ソプラノリサイタル」於紀尾井ホール

昨夜、妻と標記のリサイタルに出向く。地元の隠れた文化人である知人の推奨である。
第1部は佐藤氏がロッシーニ、ベッリー二、ドニゼッティ、ヴェルディの作曲した歌曲を2曲ずつ歌う。歌曲の歌詞は翻訳されて舞台両脇のスクリーンに表示されるが、愛をテーマに恋しい思いを歌ったり、揺れ動く自分の心境を歌い上げるような歌だったと記憶している。同じような調子の歌が多いと感じるが、歌声は声量もあり、高音部とはこちらの耳が震えるような感じがし、自宅でCDで聞くのとは大違いである。ベッリーニの「私の偶像よ」という曲が短いが曲調が違い印象に残っている。印象に残ると言っても音楽に疎い私には音の印象は再現できず、どんな曲かは説明はできない。

第2部はオペラ『ランメルモールのルチア』(ドニゼッティ作曲)から、テノール古橋郷平、バリトン上江隼人の両氏に賛助出演していただき、歌劇仕立てである。
これが良かった。主人公ルチアの感情も歌声に乗せているのか、心に響く。耳に響くだけでなく、心も響くのだ。
長時間、主人公の感情が伴う動作を行いながらの歌唱であり、また座ったり、寝たりしながらの発声などは技術的にも体力的に大変なのだと思う。アンコールの拍手は鳴り止まないが、私も拍手はしても、他の会場の演奏時とは違って「お疲れさま、もう歌わなくてもいいから、本当に良かったよ」との気持ちである。
そういう歌唱の技術だけでなく、気持ちを乗せての歌唱であり、見事だと感心した。以前に妻とオペラのDVDを家で10作品以上観たが、全然印象が違い、帰りに「今度、生のオペラを高い金を出して観に行くか」と語り合う。
今回のオペラは場面の一部分だけを抜き出したものだが、全体のストーリーは「ロメオとジュリエット」のように、対立する家の姫と王子が恋に落ち、悲劇に繋がるという物語である。家でオペラの作品群を観た時もテーマは「愛、恋」ばっかりだと思ったことを思い出す。日本の歌舞伎では、愛、道ならぬ恋もあるが、主君への忠義、関係先との義理立て、親子の情、金銭のしがらみなどが入り込む。もっともオペラにも、このようなものがあり、当方が知らないだけなのであろうか。

テノール古橋郷平、バリトン上江隼人の両氏が掛け合うように歌うところも良かった。またピアノは今回のリサイタル全てを服部容子氏が演奏されたが第2部のオペラの場面ではオーケストラ並みに、その情景にあった音楽を、なめらかに、かつ強弱の付け方も歌を損なわないようにしながらも自信に満ちて弾かれており見事であり、妻が「このピアノの方も凄いわね」と言ったが同感である。

なお佐藤優子氏は平成27年度に五島記念文化賞の新人賞を受賞し、平成29年度新進芸術家海外研修制度研修員としてイタリアで勉強・修業している。このコンサートも五島記念財団(現在は東急財団)が後援している。また過去の五島記念文化賞の受賞者には知られている人としてテノールの錦織健氏、ソプラノの森麻季氏がいる。今回出場の上江隼人氏も受賞者である。佐藤優子氏の今後の大成を期待したい。

「戦争の日本史14一向一揆と石山合戦」神田千里著

この本は私には読み難い専門書で、以下の認識は正しくないことも十分に考えられるから、あくまでも参考程度に読んで欲しい。
一向一揆は一向宗(浄土真宗)を信じる者が権力者に立ち向かった一揆と認識していたが、それほど単純なものではないことが理解できた。一向宗に限らず、民衆は生き延びるために、宗教の持つ病気治療面、寺内特権(諸公事免除、治外法権)などで宗教に頼り、宗教施設のもとに集まる。一方、宗教、宗教施設は集まった民衆を守る為に、また自分の寺社の勢力が拡大するように、その地の権力者とは争わず、その特権を認めてもらうように近づくと言うことである。

宗教は民衆側にあるという側面がある反面、権力者側にすり寄る面がある。それは比叡山延暦寺でも、法華宗でもキリスト教でも同じである。だから従来の親しかった権力者が、新たな権力者と戦う事態になった時に、従来の権力者側に立って戦ったというわけである。
また宗教は昔から寺社内の治外法権的な特権を与えられており、それを守るため、また権力者側からすれば、不都合になった治外法権を制限する為に寺社を攻撃するわけである。

一向宗は加賀を実質支配したり、信長との石山本願寺との争いで有名になっている。
加賀の一向一揆は文明6年(1474…守護富樫幸千代を追放)と長享2年(1488…守護富樫政親を滅ぼし約百年間自治が行われる)にあるが、いずれも時の守護富樫家の内紛において、片方に味方した結果である。守護家の内紛とは応仁の乱の東軍、西軍の影響である。加賀の守護家は力が強くなく、幕府と在地を結ぶ役割を本願寺教団が担うことで守護の肩代わり的な位置を占めるに至ったようだ。

石山合戦は、そもそも本願寺は足利幕府(義昭)と三好三人衆(三好政康、三好長逸、石成友通)との縁が深く、彼等が反信長となったので、本願寺も反信長になったわけである。

なお親鸞の教えを受け継ぐ浄土真宗には本願寺派以外に真宗高田派(下野国高田専修寺)、仏光寺派(京都)、三門徒派(越前)がある。文明6年の加賀では高田派(富樫幸千代方)と本願寺派(富樫政親方)が抗争している。信長の越前一向一揆の掃討には高田派と三門派は信長と一緒に戦っている。
だから親鸞の教え=浄土真宗の宗教の教義には反権力というようなものは無い。ちなみに本願寺派は石山合戦後に蓮如と子の教如が対立し、江戸時代には東西の本願寺に分裂している。

また信長が比叡山を焼き討ちしたり、伊勢長島で一向宗徒を撫で切りにしたことで、信長の反宗教的行動がクローズアップされるが、信長は、比叡山の僧侶や長島の僧侶が堕落し、比叡山では敵の浅井・朝倉に味方し、伊勢長島では信長の敵斎藤龍興も逃げ込んだ時に助けるなど守護不入の治外法権を悪用する佞人凶徒で本願寺門徒の名に値しないと批判して、それを討伐の理由に挙げており、反宗教という言葉でまとめるのは正しくないと書く。

宗教の反権力的役割、民衆の力をことさら一向一揆に求めるのは違うということである。宗教は権力者にすり寄り、庇護を求めるのである。もちろん戦いが始まれば、仏敵とか「進者往生極楽 退者無間地獄」などの宗教的なスローガンで民衆を鼓舞するわけだが。


「ランカイ屋東介の眼」木村東介著

美術商羽黒洞の店主であった木村東介が、生前に展覧会のカタログや雑誌に寄稿した文章を集めたものである。
ランカイ屋とは展覧会屋という意味で、木村が惚れ込んだ画家の展覧会を多く企画していることから称されたようだ。昔の美術商は何人かの金持ちコレクターを客に持つと成り立つという時代に生きており、その当時に値札を付けた展覧会での販売を行ったわけであり、革新的であった。その会場となる当時のデパートの美術部との関係がわかるような記述もある。

このような行動の背景に、美術は一部の権力者、金持ちだけのものではないという木村東介の信念があった。だから当時の画商が、有望な若手画家に、このような客層が好む絵を画かせるようなことにも反対していた。
このような木村東介が惚れ込んだ画家とは、長谷川利行、木村荘八、中村正義、斎藤真一、大島哲以に書道家の宮島詠士である。他にジャンルとして肉筆浮世絵、開国美術なども取り上げている。また岸田劉生、横山大観については思い出を記している。

上記の信念から、開業当初は柳宗悦の民芸に属するものを集めて売ることからはじめる。”奥州げてもの”と称していたようだ。この時代のエピソードとして、古いものを買うと近在に触れたら、古色を落として持参してきてがっかりしたような話を記している。

岸田劉生の項では、東介の郷里米沢出身の画家7人が七渉会を作っており、その世話役が東介で、劉生などが顧問だった関係で面識が出来たことを記している。当時は岸田が率いる草土社の展覧会などは美術界から無視されていたようで、それに反発する劉生の挨拶文を紹介している。今では日本最高の洋画画家だが。
横山大観は上野池の端に住居し、東介は湯島と近所。ある時売った大観の絵を、大観自身がへそを曲げて自分の絵ではないとして箱書きをしない事態になり、東介の知人で大観とも親しい大塚巧芸社社主の大塚稔の仲介で面会して、書いてもらったとの縁などが書かれている。

長谷川利行の絵を扱いはじめたのは東介自身が彼の絵に感動したことはもちろんだが、居合わせた式場隆三郎にも強く勧められたことが記されている。式場隆三郎は山下清を発掘した人物でもある。そして買い集め、昭和18年に日本橋髙島屋で展覧会。売れたのはたった2点。その後戦争が激しくなり、郷里の山形に絵を疎開させていた。幼児のような純粋無垢な絵として評価している。

木村荘八は江戸っ子らしい気風と絵で、庶民の声が聞こえるという。中村正義は日展に自作が師の中村岳稜から出展を止められると、日展を脱退し、不羈奔放な形と色の作品を発表した画家である。斎藤真一は瞽女を描いたシリーズで今では有名だが、当初は画題に瞽女は画商から厭がられた。大島哲以も既存の展覧会では賞をもらえていなかったが、素晴らしく、山本丘人も高く評価していた。ただ画題は売れるような綺麗なものではなく、縁起の悪いタイトルのものばかりだった。
要はこのような画家を主に取り扱った反骨の画商だったのだ。立派なものである。

なお肉筆浮世絵は浮世絵が版画で数多く出回るのに対して、肉筆浮世絵は少なく価値があがるはずだということ。開国美術とは江戸時代後期の西洋画の影響を受けた画家の作品である。川原慶賀、西川如見、司馬江漢などである。宮島詠士とは米沢に生まれ、勝海舟に学び、中国に渡り、書家の張廉卿に学び、帰国後に東京帝国大学文学部講師や自宅でも教え、人類平等の理念を持っていた。この書に惚れ込んでいる。