「天下統一とシルバーラッシュ」本多博之 著

信長、秀吉、家康という中央政権が出来たことによる経済面への影響をまとめた本である。経済を動かす血液が貨幣であり、当時は銀が東アジア市場では統一貨幣だったわけである。

銀算出の中心が石見銀山であり、本格的な産出がはじまったのは大永7年からである。博多商人の神屋寿禎が関与する。精練技術の灰吹法は明から朝鮮をへて日本に伝わる。。石見銀山は16世紀半ばから17世紀前半が最盛期であり、ここでの産出・精練技術が日本各地に伝わる。

この銀が東アジアの貿易構造を変える。それまでのヨーロッパ人の交易は胡椒とキリスト教布教が中心であった。天文8年の大内氏遣明船が銀の使用のはじめで、同じ頃に朝鮮に銀を持ち込み、綿布を持ちかえる。博多商人が関与。中国商人やポルトガル商人の日本来航を促し、後期倭寇の活動が活発になる。西国大名は独自に貿易する。

折しも鉄砲が普及する。この為の火薬原料(硝石、硫黄)は輸入品であり、これを輸入する為に銀が重要となる。他に生糸、綿なども銀で輸入された。

京都に於ける金銀の流通は永禄の終わりから元亀年間を転換点として天正年間の前半に一挙に拡大。金を装飾に使ったり、唐物の蒐集に使う

織田政権は法定枡(京の十合枡)を天正2~3年頃に登場させる。米穀量に基づく石高が、種類によって価値が異なる銭額に基づく貫高よりも、知行宛行や軍役賦課の権力編成の価値尺度に有効と考える。(福建地方からの中国渡来銭の供給途絶もあるか。)

信長は金と銀の通貨としての使用を、銭との換算基準を示して公認。秀吉は重量と品位を政権として保証する法貨を天正15年から鋳造・発行。
文禄年間に米との相場が立つ。朝鮮出兵で米が必要になり、全国の流通網もできてくる。

そして秀吉は長崎を直轄領とし、海賊停止令を出す。
中央政権がない時は、大名・国人、商人は個々に主体的に経済活動。領国を越える船舶の安全保障に海賊がいた。見返りに通行料を払う。大名は国人に一定量の運上を収めることで鉱山経営の権利を保証される。戦国末期から織田政権下に金銀の国内流通は急速に活発。金を含め、貿易品も国内に流入。日本経済は東南アジア経済と連動する。

秀吉の統一政権は外交権の再統一をし、天正16年に海賊停止令を出す。天正15年に長崎を直轄にして輸入品の先買権を行使。日本人の海外渡航は禁止しない。朝鮮出兵は物流の一元化が進むきっかけとなる。

豊臣政権は国内の金銀鉱山の開発を積極的に進め、諸大名の鉱山領有を認めつつ、生産物の一部を上納させる。文禄・慶長年間に金銀の社会浸透が進む。大都市では年貢米が売却されて金銀に換金される貢租換金市場となる。各大名は鉱山があれば収奪を強化、無い場合は九州大名などは海外、フィリピン貿易でまかなう。政権は朱印状で制限し、ルソン壺の独占購入などの貿易政策をすすめる。5大老の体制下では徳川家康が外交権を掌握していく。
関ヶ原後に徳川による国内主要金銀鉱山の接収。家康は慶長6年に慶長金銀を鋳造。金貨は武田の甲州金の四進法(両、分、朱)を採用。甲州出身の大久保長安の影響か。

慶長14年に平戸にオランダ商館。銀が輸出され、主にアジアの生糸などが輸入。寛永12~18年には銀が大量に輸出され、幕府は銀輸出を抑え、銅や小判の輸出を認める。応益には灰吹銀(高品位)ではなく丁銀(品位80%)の使用を命じる。キリスト教の禁令強化の中、通商は縮小、朱印船貿易は減少。寛永12年に日本人と渡航と帰国が禁止。寛文8年幕府は銀の輸出を禁じる。寛文11年には中国舟には丁銀の輸出を認める。寛永通宝が広まり、近世三貨制度が成立。

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