「戦争の日本史14一向一揆と石山合戦」神田千里著

この本は私には読み難い専門書で、以下の認識は正しくないことも十分に考えられるから、あくまでも参考程度に読んで欲しい。
一向一揆は一向宗(浄土真宗)を信じる者が権力者に立ち向かった一揆と認識していたが、それほど単純なものではないことが理解できた。一向宗に限らず、民衆は生き延びるために、宗教の持つ病気治療面、寺内特権(諸公事免除、治外法権)などで宗教に頼り、宗教施設のもとに集まる。一方、宗教、宗教施設は集まった民衆を守る為に、また自分の寺社の勢力が拡大するように、その地の権力者とは争わず、その特権を認めてもらうように近づくと言うことである。

宗教は民衆側にあるという側面がある反面、権力者側にすり寄る面がある。それは比叡山延暦寺でも、法華宗でもキリスト教でも同じである。だから従来の親しかった権力者が、新たな権力者と戦う事態になった時に、従来の権力者側に立って戦ったというわけである。
また宗教は昔から寺社内の治外法権的な特権を与えられており、それを守るため、また権力者側からすれば、不都合になった治外法権を制限する為に寺社を攻撃するわけである。

一向宗は加賀を実質支配したり、信長との石山本願寺との争いで有名になっている。
加賀の一向一揆は文明6年(1474…守護富樫幸千代を追放)と長享2年(1488…守護富樫政親を滅ぼし約百年間自治が行われる)にあるが、いずれも時の守護富樫家の内紛において、片方に味方した結果である。守護家の内紛とは応仁の乱の東軍、西軍の影響である。加賀の守護家は力が強くなく、幕府と在地を結ぶ役割を本願寺教団が担うことで守護の肩代わり的な位置を占めるに至ったようだ。

石山合戦は、そもそも本願寺は足利幕府(義昭)と三好三人衆(三好政康、三好長逸、石成友通)との縁が深く、彼等が反信長となったので、本願寺も反信長になったわけである。

なお親鸞の教えを受け継ぐ浄土真宗には本願寺派以外に真宗高田派(下野国高田専修寺)、仏光寺派(京都)、三門徒派(越前)がある。文明6年の加賀では高田派(富樫幸千代方)と本願寺派(富樫政親方)が抗争している。信長の越前一向一揆の掃討には高田派と三門派は信長と一緒に戦っている。
だから親鸞の教え=浄土真宗の宗教の教義には反権力というようなものは無い。ちなみに本願寺派は石山合戦後に蓮如と子の教如が対立し、江戸時代には東西の本願寺に分裂している。

また信長が比叡山を焼き討ちしたり、伊勢長島で一向宗徒を撫で切りにしたことで、信長の反宗教的行動がクローズアップされるが、信長は、比叡山の僧侶や長島の僧侶が堕落し、比叡山では敵の浅井・朝倉に味方し、伊勢長島では信長の敵斎藤龍興も逃げ込んだ時に助けるなど守護不入の治外法権を悪用する佞人凶徒で本願寺門徒の名に値しないと批判して、それを討伐の理由に挙げており、反宗教という言葉でまとめるのは正しくないと書く。

宗教の反権力的役割、民衆の力をことさら一向一揆に求めるのは違うということである。宗教は権力者にすり寄り、庇護を求めるのである。もちろん戦いが始まれば、仏敵とか「進者往生極楽 退者無間地獄」などの宗教的なスローガンで民衆を鼓舞するわけだが。


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