「考古学が解き明かす古代史」古庄浩明 著

考古学者が書いた日本の古代史(弥生時代~壬申の乱)である。水田遺跡としては佐賀・菜畑遺跡で山ノ寺式土器と一緒に発見されたのが古い。紀元前300年頃か。稲は中国の長江の中・下流域が起源で、朝鮮半島経由か、あるいは海を越えて直接来たかである。青森県砂沢遺跡から水田跡が発見されるなどの結果、稲作は急激に広まったと考えられる。

日本では銅と鉄が同時期に伝わり、青銅器は主に祭りに使われる。島根県出雲市斐川町神庭西谷の荒神谷遺跡で中細形銅剣が358本、銅鐸6個、銅矛16本が発見。近くの加茂岩倉遺跡でも銅鐸39個が発掘。出雲勢力はその後青銅器の祭祀を放棄して、方形の墳丘の四隅を突き出させる四隅突出型墳丘墓を造る。次の段階で近畿では古墳文化が起こる。近畿の古墳には吉備地方の特殊器台や九州の鏡を埋納する儀礼も取り込んでいるから、近畿と各地方のつながりが想起される。

金印については真偽論争がある。邪馬台国論争で近畿説では卑弥呼の墓を箸墓古墳とし、纏向遺跡を邪馬台国とするのが一般的だが、著者は中山大塚古墳が一番上の河岸段丘にあり、特殊器台が出土しているし、近くの黒塚古墳(天理市にあり、33面の三角縁神獣鏡が出土し、盗掘穴から三世紀代の庄内式土器が出土)が卑弥呼を補佐した男弟の墓と考え、次のトヨが箸墓古墳の主ではなかろうかと推測している。

古墳時代とは3世紀中頃から7世紀末頃までである。各首長は身分秩序に応じた古墳を造る。前方後円墳で古いのは箸墓古墳。

鉄製品は朝鮮の弁辰(加邪)から鉄鋌(てつてい)というインゴットで輸入していた。
東日本には濃尾平野を中心に狗奴国があった。

3世紀後半から中国は混乱。これに乗じて高句麗が勢力を伸ばす。朝鮮では346年に百済が小国連合の馬韓を、356年には新羅が小国連合の辰韓を統一する。南下する高句麗に対抗。ヤマトは南部の弁韓(任那)に進出。高句麗に圧迫された百済は倭と同盟。396年に任那を支配。高句麗で倭と戦ったのが好太王である。

高句麗と戦うことで倭も馬を重視し、都を河内に移す。仁徳天皇などである。4世紀後半は朝鮮半島諸国は中国に朝貢する。倭も中国南朝に朝貢する。413年~502年に倭の五王が計13回朝貢する。
軍事のウェイトが高くなり、各地の古墳からワカタケル大王(雄略天皇)との関係を示す鉄剣が発見される。

朝鮮半島では475年に高句麗が百済を攻め、任那では倭の支配力が後退して、512年に任那を百済に譲渡。新羅も浸食。

倭では王族同士の骨肉の争い。大王に権力が集中し、それを支える大伴、物部などの豪族の力が強くなり、支配層の身分制度が確立する。地方では反発も生まれ、吉備氏が反乱する。武蔵でも争いがある。

越前から継体天皇が入り507年に即位する。527年には筑紫磐井の乱が起きる。
百済から仏教が531年に伝わる。562年、新羅は任那を完全に制圧。百済などからの渡来人が文化をもたらす。

571年の欽明天皇の見瀬丸山古墳が最期の前方後円墳で以降は円墳や方墳。7世紀には八角形墳が大王の墓に生まれる。

589年に中国で隋が統一する。日本は4回の遣隋使。天皇中心の中央集権国家が生まれる。疫病の流行に伴い、崇仏と廃仏の争いが生まれる。
以降は聖徳太子の時代から、645年の大化の改新に到る。663年に白村江の戦いで負け、百済は名実とも滅亡し、新羅が朝鮮を統一する。
672年の壬申の乱と移っていく。

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