「特別展 人・神・自然 …ザ・アール・サーニ・コレクションの名品が語る古代世界」於東京国立博物館

先日、「正倉院展」を拝観し、その時に東洋館で開催されている標記の展覧会を観たのだが、この時は予約したレストランからの連絡で観覧を中断した。面白い展示であり、昨日、この展覧会のみ再訪した。これは世間に騒がれていないが実に面白い展覧会である。

エジプト、メソポタミア、ナイジェリア、中央アジア、西アジア、ギリシャ、ローマ、東地中海、中国、メキシコ、グァテマラ、ペルー、南アラビアなど各地の古代に創られた美術工芸品の展示である。出品目録は全部で117点とある。

前2050年頃のメソポタミアの「男性像頭像」は写実的で端正な顔の像で美しい。他に前2000~前1800年頃の「男性像頭部」も展示されていたが、人間らしい自然な造形であった。「容器」として宝石を散りばめた銀細工も凄いものだった。

ナイジェリアのノク文化という前5世紀~後5世紀の「男性像頭部」はアフリカ系の顔立ちの像で目鼻が独特、頭部の頭髪の編み方も印象的であった。当展覧会で一番印象に残ったものである。
エジプト新王国時代のアマルナ文化の「女性像頭部」はエジプトらしく後頭部が長い像だが威厳もある。「化粧用匙」は女性が飛び込みをしているようなスラッとしたものだ。

「バクトリアの王女」は前2300~前1800年頃に中央アジアで製作された小さい全身像だが、衣服の模様が網目のようで手が混んでいる。材質は金と銀だろうか。
古代ローマ(161~175年頃)の「女性像頭部」はまさにローマの彫刻で、顔立ちなどは現代人と同様に写実している美人である。

西アジアの「容器」、「皿」は狩りをしている様子を写した金属器だが、この地域の嗜好なのだろう。西アジアでは前アケメネス朝ペルシャ(前7~前6世紀)の「水差し」は豪華な金属工芸である。

メキシコ・オルメカ文化の「ペンダント」は面白い。また南アメリカではペルーのモチェ文化(2~3世紀)の「ペンダント」は猿のような模様で印象に残る。グァテマラ・マヤ文明の「仮面」は人顔を四角くしており特徴的である。ただ中南米はインカのもののような感じで既視感はある。

アラビア半島南部古代南アラビア文化(100年頃)の「浮彫」は大きな大理石に彫られたデフォルメされた女性半身像のレリーフだが、強い印象を残す。「墓碑」は同様だがより抽象化されているが、その分、面白い。今のイエメンだが凄いものだ。

図録が価値があると思ったが、家に展覧会図録が多くあり、処分を考えている最中であり、断念した。
知る人は知るで、意外と多くの人が観覧に来ていた。

「蘇我氏の古代史」 武光誠 著

藤ノ木古墳を見学し、その埋葬者説の一つに、ほぼ同時期に蘇我馬子に殺害された穴穂部皇子(欽明天皇の皇子で、敏達天皇の弟)と、その従兄弟の宅部皇子(宣化天皇の子)という説があることを知ったので、この本を読む。

この本は蘇我氏の本流の稲目、馬子、蝦夷、入鹿の4代の事績を中心に記述している。古墳時代など古い時代のことは勉強していないから、理解しにくい点もある。加えて馴染みの無い古代の人名(天皇になると名が変わる)や、血族結婚が多い為の関係性の把握にも骨が折れる。

蘇我氏は豪族連合政権時代の大和朝廷の末期(6~7世紀)に栄える。
稲目の頃は大供金村と物部麁鹿火(あらかい)が大連で稲目が大臣だった。蘇我氏は葛城氏に連なる豪族であった。朝廷の財政を預かる役割だった。
仏教が伝来した時に蘇我稲目が家を寺(桜井寺)で仏を祭る。飛鳥の西に欽明天皇の見瀬円山古墳、東に蘇我馬子の石舞台古墳を築く。馬子は積極的に仏教を保護した。

敏達天皇が亡くなり、炊屋姫は子の竹田皇子を王にしたいが幼いので、姫と馬子が中継ぎとして豊日皇子(用明天皇:敏達天皇の異母弟で炊屋姫の同母兄)を大王にする。この時、穴穂部皇子は自分が大王になりたく、物部守屋と近づく。
用明天皇は病気になる。この頃、物部と蘇我が対立する。ここに彦人大兄皇子という第三勢力が大王になることを望む。しかし馬子側の圧倒的兵力を見て動きを止める。
物部側の穴穂部皇子と宅部皇子を討てとの炊屋姫の命令を受けて、馬子が殺す。翌日に宅部皇子を殺す。馬子は穴穂部皇子の弟の泊瀨部皇子に、竹田皇子が成長するまでの大王にすると約束して味方に付ける。
この後、物部守屋を討伐する。そして泊瀨部皇子が崇峻天皇になる。そして新羅遠征計画が立案される。崇峻天皇が蘇我馬子を討とうとしたので、逆に崇峻天皇を暗殺する。
炊屋姫が推古天皇となる。推古天皇は補佐役として聖徳太子(用明天皇の子で厩戸皇子)を起用する。
飛鳥文明がはじまる。古墳の時代から氏寺という大寺院の時代である。607年に遣隋使を派遣する。
その頃、朝鮮半島の高麗、新羅、百済の争いが激しくなり、三国は競って日本に友好を求める。

この後も、蘇我氏を中心に複雑な政治情勢が記述されていく。簡単に記すと、中国大陸の隋、唐の大帝国の成立。それに伴う朝鮮半島の混乱。それが日本の政治情勢に影響する。
一方で、遣隋使として帰国した者が大陸の中央集権国家の姿を教える。
そして豪族連合政権時代から中央集権国家への移行をはじめたのが645年の大化の改新である。それから672年の壬申の乱まで朝鮮半島情勢も含めた激動の時代に入る。

「戦国 戦の作法」小和田哲男 監修

戦国時代の戦いの流れや陣形、かけ声、様々な武器のことなど、戦いに関することを幅広く記述されている。絵での解説も多く、わかりやすい。
石を手ぬぐいを利用して遠心力を増して投げる方法など、なるほどと思う。この方法だと、遠くには飛ぶが、命中率は低くなるが、遠くの敵の集団に投げ込むのには有効だろう。
馬の鎧も、当然にあったことと思っていたが、この本で具体的に知ることができる。狙う方からすれば標的の大きい馬を攻撃するは優先順位が高い。
具体的に、この本では次の章に分けている。「1.戦いの作法」「2.出陣・進軍の作法」「3.裏工作・戦後の作法」とに大きく分け、「1.戦いの作法」では「流れと戦法」「接近戦の武器」「飛び道具」「防具」「馬」「目印」「ケース別の戦い」(ケースとは野外、海上、城郭)として、それぞれを説明している。
同様に「2.出陣・進軍の作法」では「軍隊の働き」「従軍中の問題」などが記述され、「3.裏工作・戦後の作法」では「情報戦略」「戦後の処理」などに興味深いことが書かれている。
時代小説、歴史小説でも書こうと考えている人には参考になるのではと思う。

「日本史の深層」矢作直樹 著

この本は、こういう見方も一理あると言うことを書いているのだが、歴史の時々において、天皇陛下の考えられていたこと、天皇陛下の行動が多くの局面で正しかったという視点が強く出ている本である。具体的に言及されている天皇陛下は明治、大正、昭和という近代の陛下である。ここまで常に陛下のお考え、行動は正しかったとされると天皇陛下にとっても迷惑ではなかろうか。
人は、考え、行動するに当たり、各人の接する情報によって判断するだろうから、他国の王族クラスの方と接することの多い陛下は、それなりの的確な判断があったことも考えうる。
著者は医学分野において東大教授も勤めたこともあるようだが、このような思想というか考え方を持つ人がいたことに驚く。
即位の礼などでも、多くの人が陛下のお姿を拝する為に集まっている状況を見れば、このような本の愛読者も一定数以上はいると思う。
私も人からは右寄りだと言われるが、この本にはついていけない。

「江戸の家計簿」磯田道史 著

江戸時代の武士、農民、商人や芸人、職人の収入や、食品の物価、料理・嗜好品・雑貨などの価格を現代の価格に換算して示し、その江戸時代の生活実態やリサイクル社会の実情、江戸の出版事情などを記述している。
私も拙著『江戸の日本刀』の「29章 江戸時代の貨幣・収入単位と物価水準、新々刀の価格」で江戸時代の物価を現在価格に換算したが、その時は米の価格などではなく、人件費を比較して1両30万円で換算した。
この本も1両30万円で換算している。江戸時代と現代では嗜好も異なり、製造方法や生産量も大きく違うから、分野によっては1両30万円の換算が合わないこともあるが、それは仕方が無い。
この本は幅広い分野で、江戸時代の物価を網羅していて興味深い。

農民の収支を『江戸物価事典』(小野武雄編著)から示している。耕作面積水田一町歩の農民の例である。米20石、畑作5反でダイコン売上135貫文、麦収穫6石で13両750文(395万円6250円)の収入で、支出は11両で差し引き2両とある。

大工が比較的高収入(年収800万円)であることが記されている。また髪結い職人も月収60万円とのことである。日本橋から吉原までの駕籠料金は500文で現在価格で3万7500円とある。千両役者はほとんどいなかったようだが500両(1億5000万円)程度の年収をとる役者はいたようだ。

また江戸時代は美味として三鳥二魚として、鶴、ヒバリ、鷭、鯛、アンコウがもて囃されたようだ。
雑誌に連載していたものを加筆して出版されたようで、途中、途中に他の人のエッセイが織り込まれている。作家のあさのあつこ氏、シーボルト研究者の宮坂正英氏、発酵学者の小泉武夫氏、歴史学者の北原進氏がそれぞれの分野で記したものである。

帆船日本丸、横浜みなと博物館

自治会の旅行で、標記の施設に出向く。事前に団体予約していたためか、ボランティアのガイドの方がいて、説明していただくが、想像以上に勉強になった。ただし見学時間が十分ではなく、ボランティアの方に説明時間を短くお願いしたために失礼したのではと反省している。

日本丸(これは初代の船で今は2代目が航海練習船として就航)は外から見ると、優美な帆船(重要文化財に指定)であるが、中に入ると鋼鉄製の頑丈な船だ。4本あるマストの傾きを微妙に変えていること、帆船の操舵では大きな舵輪の1回転が1度の進路変更であり、例えば30度と大きく曲がる時は30回も舵輪を廻さなくてはいけないことを知る。

横浜みなと博物館では、横浜という港町が幕末からどのように発展してきたのかがわかり、また横浜港に求められる機能が時代を追って、どのように変化し、それに対応する為に、港の設備・機能をどのように変えてきているかがよくわかった。
ペリーの艦隊の模型もあり、大砲を撃つために、下側の帆は畳んでいること、砲撃の煙でも国の旗が見えるように国旗が大きいなど、なるほどと思う。
港は当初は絹を輸出し、その後、移民を送り出し、関東大震災では横浜が東京以上の被害を受けたこと、そして震災の瓦礫を埋めて山下公園が整地されて作られたこと、そして太平洋戦争で被災など、時代ごとの変遷がよくわかる。
今は豪華客船が着くようになり、コンテナ船はコンテナが18000個も詰めるような大形船が竣工し、その荷下ろしをする為のガントリークレーンの機能がいかに進化して省人数で対応できるようになっているのかがよくわかる。

昼は赤レンガ倉庫内のレストランで食事をして、東京湾横断道の海ホタルに寄って帰宅する。

「ハプスブルク展」於国立西洋美術館

オーストリアと国交樹立150周年記念ということで、ウィーン美術史美術館に収蔵されているハプスブルク家に伝わった武具、工芸品、調度品、絵画などの美術品を展観するものである。
ハプスブルク家はライン川上流の豪族であったが、13世紀末にオーストリアに進出。そこを拠点にして15世紀以降は神聖ローマ帝国の皇帝の位を世襲し、スペインにも勢力を伸ばし、欧州各国の王家とも姻戚関係を結ぶ。ナポレオンによって神聖ローマ帝国解体後はオーストリア=ハンガリー2重帝国の皇帝として第一次世界大戦まで君臨した。

この展覧会では、ハプスブルグ家の皇帝一族としてマクシミリアン1世(15世紀)、ルドルフ2世(16世紀)、フェリペ4世(17世紀)、マルガリータ・テレサ(17世紀)、マリア・テレジア(18世紀)、マリー・アントワネット(18世紀)、フランツ・ヨーゼフ1世(19世紀)、エリザベト(19世紀)に脚光を当てて、その蒐集品などを展示している。

これら人物の肖像画が展示されているが、ディエゴ・ベラスケスの有名なお人形さんのようなマルガリータ・テレサの像や、女傑と称せられるにふさわしいマリア・テレジアの像、肌が美しく、髪型も華やかなマリー・アントワネットの像、現代にも通じる美人のエリザベトなどの女性像が目立つ。
美術史的にはベラスケス以外はあまり有名でない作家だが、当時にもて囃された肖像画家の渾身の作品である。美術史の分類ではバロック美術(均衡のルネサンス絵画から、躍動感があり、明暗がはっきりするようになる。画題はルネサンス期と同様にキリスト関係、ギリシャ神話関係、王族の肖像画など)の系列であろうか。

クレオパトラの絵(作者チェザーレ・ダンディーニ)なども真に迫った迫真性があり、カラヴァッジョの絵のようだ。

皇帝蒐集の絵画であり、一族の肖像画や古典的な画題(キリスト関係、ギリシャ神話関係)が多い。自分達の統治が優れていることを立証する民衆の絵も存在する。
肖像画は似ていなくてはいけないし、立派に見えることも大事だろう。背景で人物を暗示することが必要などでの制約もあるが、この過程で写実画は進歩したのだろう。

絵画以外の作品では、マクシミリアン1世の甲冑などの甲冑コレクションが目を惹く。材質は鉄、皮などだが、鉄は錆びておらず、今、作ったように健全で驚く。機能的ながら豪華である。槍試合用などの用途別に造りが少し違うようで16世紀頃のものだ。
金線細工の小籠、フォークやスプーン(セイロンで作られた水晶に金、宝石で装飾)や十字架型の日時計は緻密で豪華な細工である。また法螺貝や、椰子の実などの自然のものをを取り込んだ水差なども面白い。

藤ノ木古墳

法隆寺から西の方角にあって近くである。小高い丸い岡として綺麗に整備されているが、これが未盗掘だったとは信じられない。今は何度か発掘調査が行われ、その都度、整備されてきたのであろう。
江戸時代までは横にお寺(陵堂)があり、その建物が幕末に火災にあったという伝承を裏付けるものが発掘されたようだ。寺(陵堂)があっ為に古墳が境内に取り込まれていた為に盗掘を免れたようだ。

内部を見られるように古墳の入口は厳重な戸にガラスが嵌められているが、照明が故障しているようで真っ暗な闇しか見えない。ただ私が行った時は、太陽の加減で少し内部が見えた。

内部の様子や、発掘当時の遺品の状況は、近くの斑鳩文化財センターに出向くと詳しくわかる。来る人が少ないせいか、そこの案内の方に詳しく説明を受ける。
埋葬されていたのは、20代くらいの若い男と40代くらいの男の2体が、ほぼ同時期に一緒に埋葬されていたようだ。埋葬者は正式にはまだ特定されていないようだが、ほぼ同時期に亡くなったと言うことから蘇我馬子に殺害された穴穂部皇子(欽明天皇の皇子で、敏達天皇の弟)、その従兄弟の宅部皇子ではと推測されている。蘇我派=仏教導入派と物部派=仏教否定派の闘争が激しかった時代である。

藤ノ木古墳からの出土品そのものは別のところに保管されていて、このセンターではレプリカの展示である。レプリカと言っても、破損状況や変色状況まで再現されていて見事なものである。馬具の立派なものが出て、鞍の部材の文様には象が描かれている。随を経てインド、西アジアの影響である。

映像を上映する簡単なホールがあり、そこで私一人だが映像を上映してもらった。私の後には地元の幼稚園児が入って観ていた。
玄室への入口を模した通路があったり、家形棺のレプリカもあり、発掘当時の中の様子も再現されている。なお外にも赤く塗られた棺の模型があるが、これで狭い場所で壊さないように棺の蓋を開ける発掘方法などの準備を行ったと説明を受ける。

未盗掘であったが、凝灰岩の石棺であり、凝灰岩は水を通すために、棺の内部に水が溜まったこともあり、発掘時も少し水があったようである。凝灰岩だから溜まった水も下に抜けるわけだ。

棺の中にある靴も太刀も大きいものだった。埋葬者の身長はともに160㎝くらいで当時としては高い方だが、敢えて大きく見せたようだ。

なお、現在はここで「中宮寺跡を掘る」として特別展が開催されていて、この近くの古寺の屋根瓦が展観されていた。今の中宮寺とは別な場所に当初は中宮寺が建立されいたようで、その跡地を発掘した成果が展示されている。

古代史に関心がある人にはたまらない場所であろう。

法隆寺 唐招提寺 薬師寺

今回、奈良の寺と京都の寺の違いがわかった気になる。簡単に言うと奈良の寺には庭が無い。京都の寺には庭がある。奈良の寺は古い時代に建立されており、中国の影響が強く、京都の寺は室町以降の建立で日本式(畳に座ることも含めて)なのだろうか。

法隆寺と薬師寺は中学か高校の修学旅行で来たことがあるが、それ以来である。唐招提寺ははじめてである。どの寺でも、出会う僧侶、モノを尋ねる案内人もフレンドリーな挨拶をされて気持ちがいい。

法隆寺には朝早く出向く。JR法隆寺駅から20分程度歩いただろうか。途中から、両側に石垣で土手になって松並木がになっている幅一間ほどの参道が一直線に続く。
参道から南大門を入ると、途中に東大門と西大門を結ぶ通りがあり、東大門を抜けると東院伽藍で、そこに聖徳太子の為の八角の夢殿がある。一面だけが開けられていたが、中はよくは見えない。
東西の通りの先に中門を真ん中に廻廊が取り巻き、後ろに大講堂がある。廻廊の中に右に五重塔と左に金堂が建っている。ここが西院伽藍である。

金堂の中、五重塔の前で僧侶達が勤行していた。世界最古の木造建築物だ。各建築物の建設時期は全て同一ではないが、一つ一つの建築物だけでなく、全体が残っているのも貴重である。カンボジアに行ってアンコールワット等の遺跡を見たが、あれは石造の部分だけが残っているだけで、当時にあった木造の建物は跡形も無く、儚い思いを懐いたことを思い出す。それだけ法隆寺は貴重である。

金堂は2階建てで一階の屋根が大きく、どっしりした印象だ。薬師寺の三重塔もそうだが、五重塔が高い印象を持たなかった。他の建物が大きいからであろうか。ともかく、人間の住まいではなく、仏様の住まいであるという印象だ。

大宝蔵院は新たに百済観音像をまつるための建物だが、法隆寺の宝物である玉虫厨子や橘夫人厨子などが保管されている。照明が暗いので見えにくいが、玉虫の羽が貼られているのだろう。

今回は西の小高い丘の上にある西円堂を訪れる。昔の庶民の刀剣が所狭しと奉納されていたとされるが、現在は中を覗いても何もない。

唐招提寺は南大門を入ると広いアプローチがあって、その先に金堂が存在感を持ってせまってくる。鵄尾も大きく、屋根が裾野をひく距離が長く立派である。中には盧舎那仏の大きな像と、千手観音の素晴らしい像も安置されていた。
この後ろに講堂があり、右側に東室・礼堂の細長い建物があり、さらに右側に正倉院のような校倉造りの経堂、宝蔵がある。日本最古の校倉造りとのことだ。結構、床が高い。
今は奥の御影堂は工事中であった。
新宝蔵では、仏像が展示されていたが、頭部がないが「東洋のビーナス」とされる如来形立像があり、なまめかしい曲線である。
境内の左の方には戒壇跡の石造りが残っていて、今はインドの仏塔のようなものが鎮座している。鑑真和尚が日本の僧に受戒したところである。

ここは奥の御影堂、鑑真和尚御廟などは一段高い土地にある。
日本への航海が厳しく、5度の失敗で盲目になられたとあるが、航海の失敗と目はどのように関係しているのであろうか。航海とは関係無しに、御歳を取られて白内障で盲目になられたのではなかろうか。

薬師寺は西側の古い三重塔が修理中であったが、足場が外れつつあり、見える。再建された西塔は鮮やかな朱だが、西の方は木の古びた色と白の漆喰で落ち着いている。

ちなみに薬師寺は昔、高田好胤氏が法話を行い、それで人気を博して金堂などの再建費用を集めていた。その法話の伝統は今に続いているようで、この時も僧侶が面白くお話しされている様子が窺えた。
再建された金堂は色も綺麗であり、創建当初をイメージしやすい。ただ何となく金集めが優先されるような感じがする寺である。

薬師寺は仏様が優美な感じがして魅力的である。薬師如来を中心に日光、月光菩薩像や東院堂の聖観世音菩薩像も優美で魅力的である。火災で焼けたものもあるようだが、黒光りしていて魅力が一層に引き立つ。


大阪市立東洋陶磁美術館

大阪歴史博物館から廻る。平常展の安宅コレクションと李秉昌韓国陶磁室などが目当てであるが、この日は他に「受贈記念 辻井コレクション 灯火具-ゆらめくあかり」と「沖コレクション 鼻煙壺」が開催されていた。
私は焼き物に詳しくないが、高麗青磁や中国の青磁などの色と形状に強く惹かれる。高麗青磁にも色々な色が発色するようだが、ここに収蔵されている作品の水色に灰色が交じったような青磁は好きな色だ。また形も優しい感じがして愛おしい。
私は美術品は刀剣、刀装具、浮世絵などを集めているが、これらの前に高麗青磁を知っていれば、こちらにはまったかもしれない。

12世紀の作品で「青磁瓜形瓶」は口の開いた首から行灯のような上部が膨らんだ壺、そして下部はまた末広がりの台だが、良い形だ。
「青磁砧形瓶」も「青磁瓶」も「青磁陽刻 牡丹蓮華文 鶴首瓶」も皆、同じように魅力的な色で、形状の調子も良く似たと言ってもいいものだが、形そのものはそれぞれに違っていて魅力的である。

「青磁 洗」は堂々たる広口でわずかに下がつぼまるような深皿である。「青磁陽刻 筍形水注」は太くて短い筍の先端部が蓋になっている水を注ぐ器で面白くも美しい。これらも12世紀の製作のようだ。

黒釉、白磁などもあるが、白磁の色合も優しさがあっていい。高麗の歴史は知らないが、陶磁器にとっては素晴らしい時代である。

焼き物の名称は青磁のほかに粉青、鉄絵、青花など決まりがあり、形状にも特有の言葉があって、それらの組合わせで識者は想像できるのだろうが、私には知識がない。

中国の南宋、元の時代は13。14世紀だが、この時代の青磁は少し緑色が増して濃くなるような気がするが、これはこれで魅力がある。国宝の「飛青磁花生」も展示されているが、そんな色合いに、黒っぽい文様が鉄で付けられたものだ。下脹れのたおやかなプロポーションをしている。黒っぽい模様は配置をちょっと間違うと汚くなるような気がするが、微妙なところで素晴らしい。

国宝と言えば油滴天目も展示されているが、不思議な模様が出るものだと感心する。また天目茶碗では木の葉が焼き付けられているようなもので発想が凄い。
日本人の感性と言うか茶人の感性だと、飛青磁とか油滴、木の葉のような乱れがある方が好まれるのではないか。

中国は歴史が古いから、時代ごとに様々なものがある。唐三彩のものは色よりも西域の人物などの風俗が面白く、明の時代のものは紺色などの綺麗な発色に緻密な文様。清は大きなものも出来てくるような気もする。

日本の陶器では、織部の時代の、歪みのある造形が面白いが、日本人が表面ザラザラの陶器を好むのは縄文土器からの感性であろうか。

鼻煙壺は小さなものであるが、色や模様が綺麗である。こういうものや灯火具など、このように種類で集める人がいることを知り、その分、陶磁器の世界は深いものだ。鼻煙壺は19世紀から20世紀のものが大半だ。灯火具は江戸時代の後期から明治にかけてのものが多い。

「特別展 決定版 刀装具鑑賞入門」於大阪歴史博物館

大阪歴史博物館に初めて出向き、標記の展観を拝見する。アクリル版の上の鐔を斜めにして観やすくしたり、小さなLEDライトを当てたりして鑑賞の便を図っている。表裏の模様の違いを見せるための工夫もしている。それでも暗くて観にくいところがあるが、今はライトの持ち込み・照射もありとして便宜を図っているとのことである。

すでにカタログ(カタログの感想はhttps://mirakudokuraku.at.webry.info/201910/article_7.html)を送っていただいており、誌上で展観される刀装具を観ていたが、実際に拝見すると、また印象が異なる。

埋忠二字銘の「松皮菱透花象嵌鐔」は明寿より時代が若い江戸時代初期~前期のものだろうが、この時代にも松皮菱文様が広く流行したのだ。私はHP上で「桃山時代のファッション-「松皮菱文様」」( http://katana.mane-ana.co.jp/matsukawabishi.html)で所蔵の金山鐔松皮菱透かしの補足説明として、松皮菱紋は古くは後藤乗真と極められている小柄にあり、戦国大名で織田信長の前に京周辺に覇を唱えた三好一門の家紋から始まり、丹羽長秀の旗印、辻が花染め織物の模様、織部焼の器にあると説明してきたが、江戸時代前期の伊万里焼にも見ている。また所蔵の赤坂初二代の四方松皮菱にあり、これは江戸の寛文新刀期のものではなかろうかと推論しているが、この鐔も参考になる資料である。京都のものであり、華やかである。

寛文三年紀・行年銘六十二歳が切られている宗義の鐔があったが、やり過ぎなデザインと感じるが年紀があり、研究資料だ。京都の埋忠系の鐔が他にいくつかあるが、素銅地に桐紋散しで無銘だが光忠のような鐔、埋忠重義の輪繋透象嵌鐔など面白いものがある。

細かい所はわからないのだが「鉄仁」と銘がある覆輪に拙い亀を透かした鐔は金家の一派なのであろうか。地鉄に魅力を感じる。
また、無銘だが、真鍮の三重の覆輪があり、円を六つ透かした鐔は確かに桃山期の雰囲気のある良い鐔だ。
山吉兵は所蔵していないので、銘はまだ研究していないが、山吉らしくトロリとした鉄味の素朴な小鐔が陳列されていた。

知られていない金工だが、奥州の磐城の政久、会津の松村弥右衛門の鐔も魅力のあるものだ。後者は埋忠明寿の影響を上手に受け止めた名品だ。なお、諸国の鐔の中に勝矢コレクションの中に肥後鐔が無かったというのは不思議である。早くに勝矢家から出てしまったのであろうか。
薩摩の二代正勝/英彦の鐔も独創的である。長州鐔の中では井上清高の花菱唐草透鐔は素晴らしい。中井善助友恒は地の仕立てが独創的である。

後藤廉乗の牛車図を拝見した時、その車軸の傾きを観て、うれしくなる。後藤光佐は力作、程乗の鋸図小柄はさすがである。後藤光煕の藤戸図における波の表現、戸張富久の月が波間に映っている小柄は名作だ。

浜野一門の薄肉彫、縦図の人物図は上手いがアクが強くなるものもある。大森英秀の干網千鳥図は豪華で目を惹く。石黒政常の鯉図小柄は水流の彫りに感銘。
田中忠重という作者の「柏に鳩図縁頭」は津尋甫にある赤銅魚子地に赤銅で高彫というもので興味深い。
会場の最期の場所に、阪井俊政氏の鐔製作過程を撮った映像が流れていて興味深く観た。

東京ディズニーランド

娘と孫2人のお供で我々夫婦2人が昨日、ディズニーランドに出向く。風も無く、快晴でいい天気であった。我々も子どもを連れて何度も来ているが、昔と違っている感じもした。
現在も、シンデレラ城は改修工事中で、他に工事中の箇所もいくつかあった。目立たないようにしているが。また園の近接する外部では新たな工事もしており、まだまだ進化していくのだろう。

上の孫は3歳10ヶ月の男の子で、途中、ベビーカーに乗ったり、おんぶをせがんだりするが、よく歩く。途中でトイレに行きたいと言った時に、広い園内のトイレの場所まで歩いて我慢できるかと思ったが、ちゃんと出向けて感心した。
電車が好きだから、行く時に武蔵野線に乗れ、中でウエスタンリバー鉄道に乗り、帰りにディズニーランド一周のモノレールに乗って、そのおもちゃのプラレールを買ってもらって満足である。

娘がスマホでファストパスなどを上手に取って、あまり並ばずに観ることができたが、こういう機器をうまく活用できないと、難しい世の中になってきた。

施設で改めて印象に残ったのは音楽の使い方である。外では何も聞こえないが、中に入ると、場所ごとに大きな音で流れる。次の場所では、その場面にあった音楽や音声だけが聞こえる。観客は次から次へと流れていくのだから、うまく計算されて設計されているのだろう。
パレードでも、自分達の前に来ると、大きく聞こえると感じるのは、パレードに使う車に隠されたスピーカーがうまく機能しているからなのであろうか。そのような音楽はあちらこちらで流れていると思うのだが、余計な音、騒音として聞こえないのは大したものである。

映像も上手に活用している。ホーンテッドマンションでは、ダイニングの上にお化けのようなのが漂っているのなど、うまく出来ている。

色の組合わせも神経を使っていて、イッツ・ア・スモールワールドは美しいというか可愛らしい。

園内の人にモノを尋ねると、どの人も丁寧に教えてくれて感じが良い。こういうことが本当に大事なモテナシの心なのだろう。

食事は注文すると流れるように提供されるが、電子レンジで簡単にできるものを、見た目を良く提供している。これも工夫の一つだろう。いい値段を取っており、儲かるものだろう。

孫の為にポップコーンが入った容器を買ったが2400円もして驚いた。

アジア系の外国人も多く、また平日だが、若い日本人の夫婦も多い。子ども連れも多く、各アトラクションの前にあるベビーカー置き場は物凄い数である。ベビーカーを間違ったり、紛失するトラブルは無いのであろうか。

「戦国大名の遺宝」 五味文彦 監修

この本は以下の10章ごとに、その分野に詳しい専門家が著述し、それらをとりまとめたものである。見て頂いてわかるように、少し変わった歴史遺産を取り上げている。各章の内容に精粗がある感じもするが、それなりに興味深い。
「1.甲冑具足」、「2.装束と調度品」、「3.旗印」、「4.狩野派の絵画」、「5.読書と漢詩」、「6.戦国大名と茶道」、「7.囲碁・将棋」、「8.城郭」、「9.合戦図屏風」、「10.井伊家の遺宝」である。

「1.甲冑具足」では戦国武将が個性を生かして様々な意匠の甲冑を身につけていたことがわかる。兜の色々な種類の解説もあり、基礎知識を得るのにもよいし、各武将の甲冑を知るのにも良い。加藤嘉明の「黒漆塗仏胴具足」も面白い。南蛮の影響を受けた兜も広く使われていたことがわかる。
「2.装束と調度品」では辻が花染の胴服や武将の陣羽織、南蛮風の外套など、各武将の斬新なデザインに驚く。加藤清正の「蛇の目紋羅紗陣羽織」は、蛇の目が赤と黄であり、地は黒という鮮やかさである。豊臣秀吉の「黒黄羅紗地富士御神火文陣羽織」も、富士の御神火のデザインが面白いし、色も黒と金で鮮やかである。武将が使った刀剣と外装も紹介され、また馬具、采配、軍配、法螺貝、背負太鼓なども出ている。
「3.旗印」では大将の所在を示すのが馬印と解説されてきたが、旗印と区別がつきにくく、著者は旗の形をしたのが旗印で、そうでないのが馬印としている。屏風などから各武将の旗印を示している。神仏系と紋所系、記号、図形系などもある。

「4.狩野派の絵画」では狩野永徳(豪壮、華麗)、山楽(生命感あふれる動感表現)、探幽(繊細、優美)などを解説している。
「5.読書と漢詩」は北条早雲が家訓で少しの暇があれば物の本を読むことなどを書いている。そして禅需一致で儒教の本も読み、また連歌などを行う為に王朝文学も読んだことを記している。漢詩は信玄や謙信、伊達政宗が知られている。
「6.戦国大名と茶道」では当時の社交に茶道は不可欠であり、名物道具が贈り物に使われていることを書いている。
「7.囲碁・将棋」は、これまであまり紹介されることはないが、当時の武将に愛好されたことを記している。取った駒が使えないが駒数が多い中将棋も行われていた。駒の製作では公家の水無瀬家が家業とし、囲碁、将棋の専門家も生まれ、これらの人を招くことによる情報収集の役割もあったのではと書く。
「8.城郭」では現存する城の天主を一つずつ解説していて「なるほど、こういう視点があるのか」と感じるところがある。
「9.合戦図屏風」は現存する合戦図屏風に即して場面を解説し、「10.井伊家の遺宝」は井伊家という大名家の視点から以上のような各種遺宝を解説している。

「東洋文庫の北斎展」於東洋文庫ミュージアム

東洋文庫ははじめてである。ここは本の博物館であり、東洋学の研究図書館という位置づけで世界5大東洋学研究図書館の一つと言う。蔵書数は国宝5点、重要文化財7点を含む約100万冊とのことだ。
入ると受付と売店があり、そこから館内に入ると、右側の扉が中庭に面したオリエントカフェというレストランになっている。三菱と縁がある小岩井牧場の食材に拘った食事を提供している。ここで妻と食べる。そこに行くまでの壁にアジア各国の有名人の言葉や本の一節が現地の言葉で記されている。

館内は細長いロビー(オリエントホール)があり、20冊ほどの蔵書が展示してある。今回は葛飾北斎が生きた時代というテーマで『ナポレオン・ボナパルトの生涯』、『共産党宣言』、『純粋理性批判』、『ハワイ語辞書』などの書が並んで解説されている。本の言語は様々である。ホールの片面には広開土王拓本レプリカなどがある。この碑文がこんなに大きいとは知らなかった。また画像で、ここに所蔵されている書籍の概要が観られる機器もある。

そこから壁に付着したような階段を上がって2階に行く。この中央には古書が3段の岩場のような本棚にぎしりと収納された本棚が圧倒する。1段目は9棚、その上に2段目が少し奥まって3棚、されにその上には3段目が2棚ほどの書棚である。本も昔の本だから背表紙も立派である。これはモリソン書庫と言って、岩崎久彌氏が当時の金で70億円ほど出して購入したモリソン氏の蔵書である。G. E. モリソン氏が北京駐在中の約20年間に腐心収集したもので、『東方見聞録』、『天正遣欧使節記』や『ペリー提督日本遠征記』、『南洋漂流記』などがある。ペリーが上陸した時の図も展示してあるが、赤い服を着て上陸したようだ。

その左横の部屋が名品室と言うことで国宝の『文選集注』や『イエズス会士書簡集』、『解体新書』、『ターヘルアナトミア』などが展示されている。

その奥から回廊を伝わって戻るような形で2階の右側に行く。ガラスの床面のところがあり怖い。今回はそこで北斎展が開催されている。北斎の浮世絵は少なく、本の挿絵として北斎が画いたものなどの展示が多い。浮世絵は「諸国瀧廻り」の数枚が刷りも保存も良い。この水の表現は迫力がある。

今回は、「葛飾北斎とその時代」というテーマで安村敏信氏の講演があり、拝聴する。
北斎の若い時から、それぞれの時期の代表的な作品と特色を説明される。次のように6期に分けて、()内に記した特色を画像を紹介しながら説明される。次の通りである。
「1.春朗期19~34歳」(役者絵、相撲絵、浮絵)、「2.宗理期35~44歳」(宗理風美人、洋風版画)、「3.葛飾北斎期45~50歳」(鳥羽絵、読本挿絵、美人画の新境地)、「4.戴斗期51~60歳」(『北斎漫画』、鳥瞰図)、「5.為一期61~74歳」(『富嶽三十六景』、花鳥図版画)「6.画狂老人卍期75~90歳」(幻想の世界へ)

その後、北斎の門人とされている人の作品、同時代に活躍した他派の浮世絵師の作品を説明される。筆記具を持参しなかったので講演内容を詳しくメモしなかったが、「なるほど」と思った。

「教科書には書かれていない江戸時代」山本博文 著

面白い本であり、本当に教科書には出てこないような江戸時代に暮らした人の生活、行動、考え方などをわかりやすい文章で記述されている。私はこの人の文章は好きだ。
本の構成は”第1編 武家の世界”では、章が「1.武士の稼業も楽じゃない」、「2.参勤交代の経済学」、「3.武士の黄昏-幕末期の武家」になり、”第2編 庶民の世界”では「1.多様性のある江戸時代の都市」、「2.明日は今日より面白い」、「3.江戸時代は薬社会」となる。
”第3編 学問の世界”では「1.儒学者の時代」、「2.江戸に花開く最先端の「知」」、「3.蘭学者に対する弾圧」になる。

「1.武士の稼業も楽じゃない」では武士の行動原理を説明しており、<武士の一分>という非合理だが大事な思考様式があることや、廉恥心(恥を知る)を持ち、名誉心がバックボーンにある忠義、また悲しみを押し殺すような忍耐の精神を説明して、切腹の心をいくつかの視点から解いていく。旗本を例にした武士の出世コースの説明もある。
「2.参勤交代の経済学」では1日の距離は30㎞から40㎞歩く。多額の費用もかかるが、費用は江戸屋敷の維持の方が高い。随行の武士が全て本陣、脇本陣に泊まれるわけではなく、普通の宿にも泊まる。馬の宿泊料は人間の3倍程度かかるなどが理解できる。
「3.武士の黄昏-幕末期の武家」では旗本戸川伊豆守安愛の伝記を紹介している。それから天璋院篤姫の生涯を、薩摩藩の仙波市左衛門という人物の日記も織り交ぜて紹介している。それから大奥のことを書き、将軍家茂と孝明天皇の交流も書く。ともかく孝明天皇は異国人が日本に来ることを極度に嫌ったわけだ。清国の状況などを知っていた人は攘夷などできないことはわかっていた。開国して技術を盗んでから攘夷というものだった。
孝明天皇は慶喜も厚い信頼を寄せていたというか、頼りになるのは徳川家という感じであった。大政奉還を決断した背景に、当時、京都に薩摩藩士がたくさんいたことにある。ただ京都にいたからと言って薩摩が挙兵するということではなかった。

第2編 庶民の世界「1.多様性のある江戸時代の都市」では全国に260藩があり、2万石以上が城を持つ。人口3万人くらいの都市は3万石の城下と考え、門前町、港町も発展していた。酒田の本間家は北前舟の交易で財産を築く。冨山は薩摩から琉球の薬種を仕入れていたことなどが記されている。
「2.明日は今日より面白い」で景気の変遷を書いているが、元禄時代は好景気。次の将軍から吉宗の時代は緊縮の時代。宝暦から明和、安永、天明までが田沼意次の好景気。女髪結いは明和・安永頃からとか、江戸の見世物興行、園芸などのことにも触れている。
旅行も大人気で、飛脚問屋は金も運んだこと、為替制度もできていたことを記す。

第3編 学問の世界では「1.儒学者の時代」江戸時代は薬が大事で、儒者が医者も多く、また家伝の薬(寺院、武家、医家)も人気だった。「2.江戸に花開く最先端の「知」」では儒学者など学者を簡単に紹介。特に熊沢蕃山を取り上げている。池田光政が非常に学問好き。閑谷学校もつくる。後に蕃山とあわなくなる。次の池田綱政は学問が嫌いとある。
伊藤仁斎や荻生徂徠は実証的な学問であった。
そして西洋文明の脅威が認識されるようになる一方で、「3.蘭学者に対する弾圧」が鳥居耀蔵を中心に行われたことが記される。

「大人の教養図鑑 戦国入門」二木謙一 監修

副題に「戦いとくらしの基礎知識」とあり、「教養図鑑」とあるから、図を多く使った簡単な本かと思ったが、なかなかにしっかりと書いてある本である。
「1.戦国の幕開け」「2.武士・公家・民衆のくらし」「3.戦国の戦い」「4.戦国の群像」という章立てになっており、1章では室町幕府の体制から説き明かしている。室町幕府は中央と関東の2本立てで統治し、守護を京都に呼んでの統治であり、政権基盤が弱かったことを記す。次ぎに関東の戦乱を説明する。ここで太田道灌は足軽を活用して武将を取り囲んで殺す戦術を採用したことが記されている。革新的な戦い方だったわけだ。関東の混乱で生まれた伊豆の堀越公方だが、その家中の混乱に乗じて、駿河に嫁いだ妹の縁で今川家の家督争いをまとめた伊勢新九郎盛時が伊豆に攻め入り、後の北条家を興す。北条家は代々善政を敷いたとされる。
本では次ぎに中央の情勢の説明として応仁の乱を説明する。このあたりから三好長慶が京都地方を掌握する過程も丹念に記述していく。松永久秀のこともそんなに悪臣としては説明していない。

2章では鎌倉時代からの武士の思考パターンを説明するが、頼朝が嫌った義経の事情のことなどわかりやすい。室町時代になると、朝廷は財政が窮迫し、官位を売ったり、地方に流れていったり、家職(陰陽道は土御門家、和歌は二条、冷泉家、笛は久我家、琵琶は西園寺家など)で暮らしをたてたことが記される。
民衆は国人(地域の領主)→地侍→本百姓→下人という身分区分で戦国大名が直接把握したのは国人クラスと書く。山城国一揆、加賀の一向一揆などの民衆の動きや徳政令の背景なども記述していく。そして技術革新が始まり、各地の特産品も生まれてくる。この本で刀剣が特産品になっている国として記されているのは相模、近江、大和、豊後、肥後、薩摩、安芸、備前、美濃、越中である。

3章では戦闘方法の変化、それに伴う城の構造の変遷を書く。足軽の比重が高くなったことや、日本ではこの頃から兵站は戦場で略奪という発想だったことを書く。武器のことも書くが、刀剣については高く評価し過ぎである。なお印字打ち(石投げ)のこともきちんと書いている。鉄砲と雑賀などの鉄砲傭兵集団のことなどに触れ、騎馬軍団に否定的である。私もこの本の通りだと考える。軍師と足利学校のことにも触れ、情報を取る連歌師の役割にも触れている。

4章では東北、関東、中部、東海、北陸、近畿、中国・四国、九州と地域ごとに戦国大名の動向をまとめている。改めて、このように地域別にまとめるのも面白いと思う。