「蘇我氏の古代史」 武光誠 著

藤ノ木古墳を見学し、その埋葬者説の一つに、ほぼ同時期に蘇我馬子に殺害された穴穂部皇子(欽明天皇の皇子で、敏達天皇の弟)と、その従兄弟の宅部皇子(宣化天皇の子)という説があることを知ったので、この本を読む。

この本は蘇我氏の本流の稲目、馬子、蝦夷、入鹿の4代の事績を中心に記述している。古墳時代など古い時代のことは勉強していないから、理解しにくい点もある。加えて馴染みの無い古代の人名(天皇になると名が変わる)や、血族結婚が多い為の関係性の把握にも骨が折れる。

蘇我氏は豪族連合政権時代の大和朝廷の末期(6~7世紀)に栄える。
稲目の頃は大供金村と物部麁鹿火(あらかい)が大連で稲目が大臣だった。蘇我氏は葛城氏に連なる豪族であった。朝廷の財政を預かる役割だった。
仏教が伝来した時に蘇我稲目が家を寺(桜井寺)で仏を祭る。飛鳥の西に欽明天皇の見瀬円山古墳、東に蘇我馬子の石舞台古墳を築く。馬子は積極的に仏教を保護した。

敏達天皇が亡くなり、炊屋姫は子の竹田皇子を王にしたいが幼いので、姫と馬子が中継ぎとして豊日皇子(用明天皇:敏達天皇の異母弟で炊屋姫の同母兄)を大王にする。この時、穴穂部皇子は自分が大王になりたく、物部守屋と近づく。
用明天皇は病気になる。この頃、物部と蘇我が対立する。ここに彦人大兄皇子という第三勢力が大王になることを望む。しかし馬子側の圧倒的兵力を見て動きを止める。
物部側の穴穂部皇子と宅部皇子を討てとの炊屋姫の命令を受けて、馬子が殺す。翌日に宅部皇子を殺す。馬子は穴穂部皇子の弟の泊瀨部皇子に、竹田皇子が成長するまでの大王にすると約束して味方に付ける。
この後、物部守屋を討伐する。そして泊瀨部皇子が崇峻天皇になる。そして新羅遠征計画が立案される。崇峻天皇が蘇我馬子を討とうとしたので、逆に崇峻天皇を暗殺する。
炊屋姫が推古天皇となる。推古天皇は補佐役として聖徳太子(用明天皇の子で厩戸皇子)を起用する。
飛鳥文明がはじまる。古墳の時代から氏寺という大寺院の時代である。607年に遣隋使を派遣する。
その頃、朝鮮半島の高麗、新羅、百済の争いが激しくなり、三国は競って日本に友好を求める。

この後も、蘇我氏を中心に複雑な政治情勢が記述されていく。簡単に記すと、中国大陸の隋、唐の大帝国の成立。それに伴う朝鮮半島の混乱。それが日本の政治情勢に影響する。
一方で、遣隋使として帰国した者が大陸の中央集権国家の姿を教える。
そして豪族連合政権時代から中央集権国家への移行をはじめたのが645年の大化の改新である。それから672年の壬申の乱まで朝鮮半島情勢も含めた激動の時代に入る。

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