「軍事の日本史」 本郷和人 著

歴史学は軍事のことをまともに研究してこなかったと本郷氏は述べる。そして日本人が好きな軍事は「鵯越の逆落とし」や「桶狭間の奇襲」などだとして、小人数で大軍を破るような話が取り上げられるおかしさを説く。
そして戦いは①戦術、②戦略、③兵站の3つが鍵。そして戦いに勝つ為には、④兵力、⑤装備、⑥大義名分が大事になると真っ当な議論をしていくのだが、大上段にふりかぶった割に、今一つ、実証的ではない感じである。それだけ史料が少ないのだろう。
また本郷氏は歴史を易しく、興味深く書く学者であるが、その分、論理構成などが思い付き的な感じもする。

毛利家文書などをみると、首一つとるのも大変であり、それが本当の戦いではないかと述べる。そういう戦において、死んでも仕方が無いとして、死ぬ気で戦うのは家の繁栄を望むためである。そして実際の戦いでは、追撃戦が最大の快楽になる。怖くなくなるし、相手を殺すことが容易になる。武将もこのことを知っていて「追い首」(追撃戦での首獲り)は手柄にならなかった。

そのような人一人を殺すことが大変である戦いの次元が変化したのは鉄砲の登場である。鉄砲は人を殺す罪悪感を無くすと書く。

兵站の話だが、戦国時代は一人一日3合の米が必要であり、1万人の兵だと1日で3万合=30石となる。それは4500㎏の米となる。1㎏500円だと、4500㎏だと225万円。戦が1ヶ月かかると兵糧代に6750万円となる。それに武器、馬(馬は飼料代)の代金が必要となる。こういうお金をかけての戦いであり、それなりの覚悟が無いとできない。また鎧兜は高価なものだった。

なお、兵の動員力は百石あたり2.5人程度である。1万石なら250人程度の軍隊である。

中世は一騎打ちの時代であり、騎馬による弓での戦いが中心。この時に郎党が助けるのはありとされていた。しかし源義経が壇ノ浦の戦いで採用した船の水主梶取(かこかんどり)を弓で狙う作戦は卑怯とされていた。武士特有の倫理観がある。

戦いは兵力=動員力の勝負である。戦いに確実に勝つのは相手の兵力の3倍を、戦闘局面に集中することである。

鎌倉時代の有力な家は300人くらいの兵隊を動員する。それが室町時代になると、2000とか3000人の兵力が、守護大名が自分の才覚で国の武士を動員できる規模となる。
それが信長の時代になると、もう一桁上がる。西洋ではナポレオンが国民皆兵で集めた。これだけの動員となると、プロでない兵士を動かす武器の工夫(長鑓で上から叩く、鉄砲など)が必要となり、また戦いにおける大義名分も大事となる。信長は大義名分を大事にする。

川中島の戦いは、戦いの後に川中島地域を支配したのが武田家だから信玄の勝ちである。武田の有力武将が戦死しても、戦争目的を成し遂げた方が勝ちである。
信長が越前攻めの最中に、浅井が反乱すると逃げたのは挟み撃ちの恐怖であり、兵糧が途絶えるのを恐れたためではないか。

本郷氏が唱える軍事に対して、小さな戦いのことも筆が走っていて、池田屋事件では天然理心流に刀を短く使う方法があり、室内で闘えたとか、軍上手な武将は立花宗茂であって、彼は家来に慕われていたとかの逸話も交じる。

日本では武が常に文を圧倒した。関ヶ原の戦いで家康が圧倒したから、ここからは実質的に家康が第一人者で、ここが江戸時代の起点と考える。

秀吉の戦いは革新的であって、兵站を重視していて、例えば敵の食料を買い漁ることをやる。また戦争を土木工事に置き換えて水攻めなどを行う。また「中国大返し」や賤ヶ岳の戦いでの大垣からの反転攻勢などの運動を軍事に入れている。

軍事に直接関係無いので、どういう脈絡でこの話が書かれていたのかは忘れたが、明治政府は才能を重視した政権で、広く人材登用を行い、当初は世襲をしない政権であった(のちに華族制度)と書く。




家康は江戸に厭離穢土をかけた