御即位記念特別展「正倉院の世界」 於東京国立博物館

混んでいたが、会場内に入ると、それなりに観覧できた。今は前期の時期で、11月6日から後期になる。展示物の数はリストで116だが、後期の分が36程度あり、前期の展示は80点ほどであろうか。会場内にいくつかの映像展示もあり、琵琶の復元の様子、補修の現場の作業紹介などや、正倉院の成り立ち、正倉院の建物構造などが映像で説明されていて、それなりに興味深い。
また展示物の中に、近代になって複製として造ったものもあり、その展示もあった。複製でも当代の最高峰の職人仕事であり、見事なものである。

「1.聖武天皇と光明皇后ゆかりの宝物」「2.華麗なる染織美術」「3.名香の世界」「4.正倉院の琵琶」「5.工芸美の共演」「6.宝物をまもる」に分かれている。
美術品とは言えないが正倉院の鍵とか、宝物を保管されていた箱の展示もあり、なるほどと思う。そして驚くべきことに、ボロボロになった布の残滓とか、外れてしまった金属金具の部品なども棄てることなく、保管されていて、今回、その一部が展示されていることであった。こういう心が底にあってこそ、これだけの品物が現存しているのだと思う。
記録類も光明皇后の時代からきちんとなされており、その史料の「東大寺献物帳」「法隆寺献物帳」が「1.聖武天皇と光明皇后ゆかりの宝物」で展示されていた。
鳥毛で文字の形に貼ったものも珍しいものだが、何で鳥毛を貼ったのだろうか。近代の模造品も展示されていた。
平螺鈿背八角鏡は後期の展示だが、同様に螺鈿や宝石が華麗で美しい平螺鈿背円鏡が展示されており、見事なものだった。
私の趣味の刀剣では、水龍剣と号されている直刀が展示されていた。反りが無い直刀で、両切刃造という形状で、直刃の刃文が見える。明治天皇が佩刀とされたようで、明治になって加納夏雄が金具を手がけた梨地水龍瑞雲文宝剣の拵が光彩を放っていた。
なお、刀剣関係では、補修の資料(正倉院御物修理図)の中に、明治の補修で研師石川周八の姿が描かれているものを見た。

「2.華麗なる染織美術」の展示は織物であり、時代を経ているために、色が往時の面影が無いものも多い。また形状もボロボロになった為か、一部分だけというものもあった。麻布に墨で仏像を描いたものがあったが、巧みであり、印象に残っている。
花氈という中国の唐から伝来の大きなカーペットがあり、1300年前のものとは思えない。

「3.名香の世界」は興味深かった。あの有名な香木の「蘭奢待(らんじゃたい)」こと黄熟香と、それが保管されていた箱(徳川綱吉時代)が展示されていた。想像以上に大きな香木(目測で1.5㍍程度)であった。そこに足利義政が切り取った跡、織田信長が切り取った跡が明示されていた。明治天皇も切っており、素晴らしい香りがしたとの言い伝えが残っているようだ。仏様に良い香りを供えるという動機があったようだ。カンボジアに行った時に香木は貴重で、今でも高価であると聞いたのを思い出した。

「4.正倉院の琵琶」は今回の目玉である螺鈿紫檀五絃琵琶の展示である。華麗で素晴らしいものだ。模造品も展示されているが、美しい。ストラディバリウスだとか騒いでいるが、音楽的はともかくとして美術的にはこれに遙かに及ばない。

「5.工芸美の共演」では伎楽面酔胡王という伎楽の面も展示されている。西域人の顔であり、当時の唐の国際化の実態がわかり、唐を通じてシルクロードの終点と呼ばれる正倉院を実証するものである。この伎楽面も復元されて、色も元の色を再現したものが展示されていた。酔っていた人物であり、赤ら顔である。ガラス皿もあり、これは西アジア産とのことだ。

「6.宝物をまもる」の展示は、補修した記録などや、前述したボロボロの布の残滓とか、金属金具の部品などが展示されていて正倉院の意義がよくわかる展示で為になった。

国宝、重要文化財とは別に、正倉院宝物という指定もあることを知った。正倉院に保管されているものは国宝などの指定はどうでもよく、宝物で良いのだろう。

本館の展示には刀剣女子が昨日は見当たらず、小龍景光の健全さと出来の良さには感動する。古備前友成、左兵衛尉国吉、来国次、光忠、則重、正宗、長義などの名刀が展観されていた。則重の地から鎬にかけての湯走(だと思う)は私の国広と似ていると思ったが、ゆっくりとは見ていない。

正倉院の特別展を観た後に、「文化財は永遠に」という特別展を見る。地方の寺の仏像を補修する活動をしている財団があり、その資金援助で補修が出来た仏像が陳列されていた。こういう活動は偉い。
この近くに、映像で刀剣の研ぎの過程を説明しているものがあった。修復のことを展示しているコーナーだったと思う。英語の画面だったが、段階を追って、常に観るような刀身になっていく様子が理解できる。

博物館が修復、補修作業を行っているということも、最近は表に出してきていると感じる。もちろん大切な博物館活動の一つだ。

「ここまでわかった本能寺の変と明智光秀」洋泉社編集部 編

来年の大河ドラマで明智光秀が取り上げられる為か、出版社が16人の研究者、作家にそれぞれのテーマで依頼した論をまとめたものである。テーマごとに分かれているから読みやすいと思ったが、そうでもない本である。断片的になっているからであろうか。
その16編は大きく「1.最新論点!本能寺の変」「2.明智光秀とは何者か」「3.変をめぐる周辺勢力と「その後」」に分けている。
近年話題となっている四国征伐を廻る光秀の重臣斎藤利光の兄石谷頼辰(石谷光政の養子で斎藤家出身)と長宗我部元親(妻が幕府奉公衆の石谷光政の娘)の従来の外交ルートと三好康長、その養子となった織田信長息子の信孝、及び秀吉の甥の信吉(後の秀次)の新たな外交ルートの争いが原因という説も紹介している。私はこの説が直接の原因なのかと思っている。
稲葉一鉄の家臣那波直治が明智光秀に仕えたことに対して、信長が稲葉家の肩を持った裁定を下したための怨恨説もあることを知る。これに斎藤利三が関与しており、このことで信長が光秀を通して利三に死罪を申しつけたとも伝わっているようだ。

信長の明国を征服する意図について、宣教師、特にスペイン系の宣教師は自分たちの武力の補完勢力として日本軍=信長軍を期待していた面はあったようである。

明智光秀は朝倉氏の元にいたことがあるが、室町幕府の幕臣だった可能性も指摘されている。後に光秀の家臣となった者は幕府奉公衆で京都近郊に領地を持つ武士、近江国志賀郡を任され後の近江堅田衆、南山城衆、大和衆(筒井)に丹波平定後の丹波の国人衆などである。

光秀は妻の煕子(ひろこ)だけを愛したとされているが、子女の年齢などから他にも女性が居た可能性を推測している。なお光秀妹とされている信長側室ツマ木(妻木)に関する史料も紹介している。面白い存在である。

柴田勝家は上杉氏と戦っていて、後背地の近江はいち早く光秀の味方になった地域というハンデがあったこと、丹羽(惟住)長秀は織田信孝とともに四国渡海の為に大坂にいたが、ともに在陣していた織田信澄が明智と通じているのではと討伐し、その影響で軍勢をまとめられなかったことを指摘している。
それに対して秀吉は帰路にあたる摂津の大名(高山、中川など)をいち早く味方にできた。

信長と和睦した石山本願寺は顕如(講和派)と息子の教如(反信長派)が対立。これが後の東本願寺と西本願寺に分かれる遠因と記されている。

本能寺の変(6月2日暁)は奈良にはその日の夜10時頃、三河には翌日(3日)の午後6時くらいに伝わっていることが日記などから判明する。秀吉は4日(3日深夜という説もある)、柴田勝家には6日とされている。情報が情報だけに早い伝達である。

「日本人の歴史観」 岡崎久彦 北岡伸一 坂本多加雄

これは雑誌『諸君』に掲載された3人による鼎談をまとめたものである。副題に「黒船来航から集団的自衛権まで」とあり、近代日本史を語り合っているものである。
保守の論客の話であるが、ある程度の近代史の知識が無いと内容の理解が難しい本である。また鼎談をまとめたものであり、論理が飛ぶところもあり、読み難いところもある。

この本のタイトルにも歴史観という言葉が出てくるが、色々な史観を批判している箇所があるが、私には、こんな史観があったのだという驚きがある。例えば「憲政史観」は自由民権運動は公武合体論の流れであり、土佐藩を中心としてた公武合体論から自由民権運動につながるというものだそうだ。また「薩長史観」は明治維新により、それまで続いてきた暗く長い封建時代が終わり、一気に夜が明けて明るくなったとする歴史観とのことだ。だから民党が出て、大正デモクラシーの時代は乱臣賊子が出た時代となる。

また「佐幕派史観」は、幕府側に立ち、開国など幕府の政策に積極的な意義を見出す歴史観とのことである。もちろん、「マルクス主義史観」もあり、これはラディカルであればあるほど歴史的に重要な出来事と考えるきらいがあるようだ。
「占領史観」とは、アメリカの占領のお蔭で日本は民主化したというものである。

巷では司馬史観という司馬遼太郎の歴史の考え方を言う言葉もある。私は司馬遼太郎の歴史小説は好きだが、小説家の考えたストーリーを本当の歴史と思い込んで信じることが理解できないし、それにわざわざ司馬史観なんて言ってレッテルを貼ることもおかしいと思う。
上記史観も、それぞれの歴史を見る視点であって、良い悪いの問題ではないと思うのだが。

この本で、時代ごとに、その時の当事者の行動を評価している。例えば小村寿太郎はあまり評価しておらず、陸奥宗光、津田出などの紀州の人物を評価している。また原敬は高評価で、宇垣一成、田中義一もそんなに悪くないと評価している。なお満州事変の関東軍司令官の本庄繁を男爵にしたのは間違いだったとする。すなわち命令無視して独断専行をした人物を評価したことでおかしくなったとする。
また斎藤隆夫の反軍演説を高く評価している。
なお近衛文麿、広田弘毅、杉山元の人物評価には厳しい。抑えることができた立場なのに無為に過ごしたということである。ただし、この3人の死に方はそれなりに立派だと評価している。日本の近代史に興味を持つ人には参考になる本だろうが、私はあんまり面白くなかった。

戦後政治についての評価の方が興味深く感じられるところもある。
ともかく3人の論者の基本の論調は保守であり、私は違和感がないが、反感を持つ人もいると思う。



「勝矢コレクション刀装具受贈記念 決定版 刀装具鑑賞入門」 大阪歴史博物館

大阪歴史博物館が、刀装具のコレクターであり、研究家であった勝矢俊一氏のコレクション900点の寄贈を受けたことで、展覧会を開催し、その目録も兼ねて、刀装具鑑賞に資する本にもなるカタログを製作された。
なお今回勝矢氏の御親族から寄贈を受けたのは勝矢氏が蒐集したものの約半数とのことだ。勝矢氏は信家鐔の研究において、その図柄においてキリスト教関係のものがあることに着目されて製作時代等を明確にされた業績も輝いている。だから信家鐔もコレクションには多くあったと思われるが、今回のカタログには掲載されていない。なお寄贈品リストには信家も金家の在銘品もあるが、それらは銘が悪いのだろうか、あるいはこのカタログ製作の意図にそぐわないから除外したのであろうか。ともかく触れられてはいない。

はじめに勝矢俊一氏のコレクター、研究家としての人生を紹介する。次ぎに漫画を使った刀装具が刀の外装にどのように使われているかを説明する。昨今の刀剣女子を意識している。
その後に「1.鐔-鉄を愛で、意匠を解き、地域を知る」で、コレクションの中の鐔の何枚かを紹介して、大小鐔、透鐔、鉄の鍛え肌や鐔の下地を説明する。次ぎに鐔のデザインで良く表れるものを紹介し、今度は図柄の持つ意味(そこで留守模様なども紹介)をいくつか解き明かす。そして同じ図柄で作者が違うものを比較しての考察や、透かしの陽の透かしと陰の透かしのことや、古作の写し物、それから古来から言われている伝統的な分類のいくつかを説明する。銅の地金の鐔や、尾張透かしと京透かしの図柄の特色、鏡師、刀匠、甲冑師という本職以外の人が造ったとされている鐔を説明し、江戸時代に日本の各地で造られた鐔を紹介していく。こういう中で鐔の技法や形状などもコラム的に解説している。備後の其阿弥のデザイン力、長州鐔の水墨風(雪舟以来の伝統)の紹介などは特記される。

「2.揃金具-意匠の統一性を楽しむ」では室町時代の作品、後藤家(京後藤家も含めて)、町彫り諸工の作品などを紹介する。

「3.小柄-名品で学ぶ金工の諸流派」では後藤家の極め銘と自身銘のこと、後藤分家と後藤家に学んだ金工(戸張、野村)、桃山時代の金工、加賀象嵌、浜野一門、奈良派、柳川一門、大森一門、石黒一門、村上如竹、京都の金工と分け、最期に木製小柄という珍しいものを掲載している。有名金工のものが登場してくる。

「4.笄、目貫」は少ないが、章を立てて紹介している。
「5.縁頭-視点を絞る」では小柄は各流派を網羅的に蒐集されているのに対して、縁頭では村上如竹一門が多く、蒐集されているので「視点を絞る」という副題になっている。如竹一門以外では近江と美濃の縁頭を紹介して、共通する特色としての図柄の濃密さを指摘している。

そのほか後藤七郎右衛門家(一乗の実家)の伝来ではないかと推測している「ヤニ型(刀装具の完成品に松脂と墨などを混ぜたものを押し当てて型取りしたもの)」のコレクションを紹介している。黒いもので写真ではどんな作品かはわからないが、それに「徳乗作 光覧極」などの説明が添付してあり、詳しく研究すると面白いものだろう。ちなみにこのようなヤニ型は大阪城天守閣に末永雅雄氏のコレクションがあり、京都国立博物館にもあるようだ。

さらに併設展示をしている根付作品ーこれらは根付の研究で名高い渡邊正憲氏から寄贈を受けた-も所載されている。
また大阪で活躍された現代の装剣金工阪井俊政氏の作品も10点ほど紹介している。阪井氏は勝矢氏に教えを受けた時期もあるようだ。

最期に勝矢コレクション総覧として、白黒の小さい写真だが、全作品が掲載され、それぞれの作品概要が名称、銘、法量だけだが掲載されている。

以上に概説したカタログの構成からもわかるように、従来の刀装具の書にない新味な工夫をしており、意欲的である。900点を超える寄贈品から、このようなカタログにまとめ上げるのは大変な苦労だったと思う。

従来の透かし鐔の分類名称である尾張、京などを使っている箇所もあるが、それら流派の特徴を説明するような箇所は一つもない。これらの分類は根拠がないから、あえて避けたのではと思う。
各金工個々の説明も詳しくない。これも伝承の話が多く、また今回の解説方法の中では不要と考えてのことであろう。
図柄の説明の箇所に、はじめて知ることもあり、なるほどと思う。葡萄に栗鼠の図の説明に私などは「武道に立す」と習っていたが「武道に律す」とあった。また片輪車の説明に、木製の車輪にひび割れが起きないように水に浸けるなどの説明を読んで勉強になった。
金工の彫技に関しても、浜野一派の特色として「肉取りの技術とリアルな人物表現を流派の特徴」と的確な評をしている。長州鐔の図柄における雪舟一派の影響という指摘もなるほどと思う。

写真は必要最低限は映っているが、被写体=作品に対する愛情が足りない感じである。これだけの数を記録撮影するのが第一であったわけであり、やむを得ないだろう。刀装具の魅力がわかる拡大写真も無い。

掲載された刀装具には私の好みのものが少ないが、戸張富久の再評価には賛成である。

執筆の中心は内藤直子氏だと思うが、今後も従来の刀装具研究とは別の視点ー例えば日本美術全体の幅広い視点-からの手垢にまみれた評ではない言葉での評、史料が無い中だができるだけ根拠のある資料に基づく論に期待したい。根拠となる資料も無いのに京金工、京金具師との極めなどを払拭して欲しい。

なお、巻末に協力者として私の名前が挙げられているが、勝矢氏の論文の検索をしただけである。

迎賓館赤坂離宮

昨日、妻とはじめて出向く。明日からは即位の礼での賓客来訪に備えて休館とのことだ。入場料が1500円(和風別館は別料金で予約制で今回は参観せず)と国の施設なのに高い。妻は至る所に警備・案内の職員が配置されているから、その人件費ではないかと云うが、来館者一人一人に35頁のカラーの立派な冊子が渡されるから、その料金も込みなのだと思う。手荷物検査もある。内部は写真撮影が禁止だから、冊子のカラー写真で代用ということなのかもしれない。
それによると、紀州徳川家中屋敷跡に明治42年(1909)に大正天皇のお住まいとして、建築家・片山東熊の指揮下で造られる。その後、昭和49年に建築家・村野藤吾が賓客接待用の迎賓館として改修している。

全体の印象は先年訪問したベルサイユ宮殿と同様な建物の外装・内装で庭園の造り方も左右対称で中央に噴水というスタイルである。建築資材の大理石が眼に付くが、大理石は種々の模様があり、産地が違うことは歴然だが、それがどこのものというのは冊子に詳しい。日本だと床柱や天井板の木材の種類に凝るが、西洋は大理石なのだろうか。

入ると、まず玄関ホール・中央階段を見る。来客は正門から入り、長いアプローチを車で来て、正面玄関に付ける。そこでホストが迎え、一緒に室内に入り、赤い絨毯の上を階段で2階の大ホールに続く。来賓も高齢化して階段を上がれなくなったら難しいななどと思う。
大ホールから朝日の間に行く両脇に小磯良平の「絵画」と「音楽」の絵がそれぞれ掛けられている。

朝日の間は表敬訪問や首脳会談が行われる最も格式の高い部屋であり、今年の4月に改修工事が終わったばかりで、カーテン、シャンデリア、調度品(桜をちりばめた段通、濃緑のビロードのカーテン、椅子等)は美しい。天井には朝日の元で4頭立ての馬車に乗った女神が描かれている。改修工事の様子なども映像で紹介されている。また段通やカーテンは古いものか余材なのかはわからないが、手で触れるような展示もある。

彩鸞の間は本来は来客が最初に通される控えの間だが、首脳会談や条約調印にも使われている。柱に金色のレリーフで鸞(らん)という鳥や、兜や剣(サーベルと日本刀)などもある。ベルサイユ的であるが、違うのは王様などの肖像が無いことだ。

花鳥の間は、食事をするところにも使われ、壁に渡辺省亭の下絵を濤川惣助が七宝焼で製作した花鳥図が30枚飾られている。頭上の花鳥はフランス人画家の油彩である。

羽衣の間はオーケストラボックスがある。大きなガラス窓に立派なシャンデリアが3基ある広い部屋である。当初は舞踏会が行われるホールとして造られており、1枚仕立ての天井画が描かれている。

ところどころに「お手をふれないでください」のカードが置いてある。案内の人に「来賓が来られた時には、こんな札は置いていないでしょう?」と聞いたら苦笑して「ええ、取り除いています」とのこと。
「ここで泊まれる来賓もいるのですか?」と聞くと「泊まれるのですが、最近の賓客はホテルで泊まられるのがほとんどです」とのことだ。

庭は建物の後ろに主庭が広がる。大きな噴水があり、そこに青銅製のシャチ、亀、グリフォン(鷲の上半身、下半身がライオン)が据えられている。松だが地上部からすぐに枝が分かれる赤松(タギョウショウ:多行松)が植わっている。庭には砂利を全面に敷き詰めており、清掃も行き届いている。

裏の主庭から前庭(正門側)に回って帰ることになるのだが、前庭は芝生に松が散在する庭である。散在する松も左右対称に植えられている。

「江戸時代の「格付け」がわかる本」 大石学 著

江戸時代は身分がやかましい世界であった。この本は、大名、武家、農民、町人などの身分格付けや、食べ物などの番付などを紹介して興味深い。新書であり、読みやすく、簡潔にまとめている。
官位は古代の律令制が基本だが、時代が下がると、当初の令になかった官職(これを令外官と呼ぶ)が増え、征夷大将軍もそうである。正一位、従一位に太政官の太政大臣、二位に左大臣、右大臣、三位に大納言などど定まっており、武家の官位は幕府が管理し、朝廷は認証するだけである。職人などの官位は門跡寺院などの権限で発行される。この時の御礼が大事な収入になるわけである。

大名の官位だが、大名家の家格ごとに初官(はじめに任官される位)と極官(家格の最高位)が定められている。○○守などの受領名は自由だが、幕府お膝元の武蔵守は原則は不可、また三河守は津山松平家、陸奥守は仙台伊達家、薩摩守は島津家に限定されていた。
親藩は御三家、御三卿、御家門などに分かれており、また大名も国持大名(ほぼ一国を治める)、国持格大名(宗、伊豫宇和島伊達、立花など)、城持大名(石高で10万石以上)、城持大名格大名、陣屋大名などと分かれていた。
譜代、外様の区分はよく知られているが、この本ではじめて知ったのは関ヶ原以降に臣従した相馬、脇坂、水口加藤、秋田、戸沢、丸岡有馬などの大名は願譜代として譜代大名と同じ待遇を受けたということである。

このような大名の格の違いなどから、江戸城での部屋の違いなどや、屋敷の門構えのありかたや、衣服が違っている。屋敷は武士で御家人クラスは、まとまって組屋敷に住み、門は両開きの冠木門で300坪程度の敷地。200石取りの旗本だと片番所付きの長屋門で600坪の屋敷となる。

女性は名前で身分の違いがわかるそうで、「子」が付くのは宮廷の女性や将軍の正室である。
また町人や百姓の中での身分格差や、僧侶や絵師の身分格差など幅広く取り上げている。
町人も江戸など三都で違いがあり、江戸は町年寄(三人)、町名主(城下町の建設時期で草創名主、古町名主、平名主など)、町代、その下に家持(家主)となっている。落語に出てくる町人はこの下の店子である。

商人は、普通は丁稚→手代→番頭となり、勤務評定で昇進は決まる。
豪商は初期は朱印船貿易を行う特権商人、門閥商人。次ぎが材木商などの公共事業の投機方型豪商と、最初は一業種で成功し、後に複数の商売を行った近世本町人のタイプ。これら商人の中には後に両替商になり、そのいくつかが明治以降に財閥となる。三都以外の地方にも豪商は生まれる。

農民は村方三役とされる百姓代、組頭、庄屋(名主)がおり、その下に本百姓、そしてその下に水呑百姓などの隷属農民という格差である。なお農民は公式文書には名字を使えないが名字は持てた。そして名字は武士が許したが、金で許可することも多い。もっとも金さえ出せば江戸時代後期は武士の身分も買えた。

医師は典薬頭、奥医師、番医師、寄合医師、小普請医師が武家待遇で、他は町医者に分かれ、部門として本道(内科)、外医(外科)、口中医(歯科)、眼医、小児医、鍼医の種類があった。
僧侶は宗派によって階級や名称が違う。僧位には法印、法眼などの位がある。
絵師は狩野家が御用絵師となり、それは奥絵師(四家)、表絵師(十二家)の身分格差がある。

盲人の仲間組織は当道座で、その最高位が検校、次いで別当、乞頭、座頭となる。検校は法印になり、社会的地位は高い。それで座頭金という高利貸を行って蓄財に励む。その.返済が滞れば多くの盲人が玄関に押し寄せるということで、取り立ても厳しく、財をなす。勝海舟の先祖もその一人で、武士の身分を買ったわけである。
料理屋、菓子屋にもミシュランガイドのような格付けはあった。

「気象で見直す日本史の合戦」松嶋憲昭 著

日本史の出来事を当日の天気と照らし、考察するという本であるが、読み難くいと感じるのは天候のこと以外のことに触れているからであろうか。
取り上げた事件は桶狭間の戦い、本能寺の変、備中高松城の水攻め、中国大返し、関ヶ原の戦い、文永・弘安の役、稲村ヶ﨑の伝説である。
天候のことがわかる資料は少なく、また不完全なものが多い。一方で著者は天気に関しては多くの人が同時に体験しているから創作が難しいから、軍記物や物語でも史実を伝えているのではとも書いている。ただ、この本では司馬遼太郎の小説や問題のある武功夜話などを引用しており、鼻白むところがある。
参考になったのは、同時代の公家の日記(言経卿日記…京都)僧侶の日記(多聞院日記…奈良)や家忠日記(三河中心)などの天候の記事から、天気の記述を抜き出し、天気は西から変化していくという自然の摂理を織り込んで、事件当時のその場所の天候を推測している点である。
事件当日の天候と似ている現代の天候を探し出しての考察も行っている。
蒙古襲来の神風についてだが、昔からの説ではなく、昭和18年の頃から神風が強調されるようになってきたことを、教科書の記述内容の変化から明らかにしている。太平洋戦争で敗色濃厚になってきた時期であり、神風期待があったのであろうか。ただ文部省主導ではなく、当時の歴史学者主導の説だったとしている。
文永の役は旧暦の10月20日が現在の11月26日にあたるから、昭和33年に気象学者の荒川秀俊は神風=台風ではないと唱えている。筆者は元が日本から引き揚げる時に壱岐に停泊中に、その季節特有の暴風雨に遭遇したのではと推論している。

弘安の役では、風向きの記述から、台風が九州東岸(宮崎、大分)を通り、それに伴う風で元軍の船が損壊したと考えている。そこに元軍側の気象知識の不足(日本と中国は違う)から操船を誤った可能性を指摘している。

「軍事の日本史」 本郷和人 著

歴史学は軍事のことをまともに研究してこなかったと本郷氏は述べる。そして日本人が好きな軍事は「鵯越の逆落とし」や「桶狭間の奇襲」などだとして、小人数で大軍を破るような話が取り上げられるおかしさを説く。
そして戦いは①戦術、②戦略、③兵站の3つが鍵。そして戦いに勝つ為には、④兵力、⑤装備、⑥大義名分が大事になると真っ当な議論をしていくのだが、大上段にふりかぶった割に、今一つ、実証的ではない感じである。それだけ史料が少ないのだろう。
また本郷氏は歴史を易しく、興味深く書く学者であるが、その分、論理構成などが思い付き的な感じもする。

毛利家文書などをみると、首一つとるのも大変であり、それが本当の戦いではないかと述べる。そういう戦において、死んでも仕方が無いとして、死ぬ気で戦うのは家の繁栄を望むためである。そして実際の戦いでは、追撃戦が最大の快楽になる。怖くなくなるし、相手を殺すことが容易になる。武将もこのことを知っていて「追い首」(追撃戦での首獲り)は手柄にならなかった。

そのような人一人を殺すことが大変である戦いの次元が変化したのは鉄砲の登場である。鉄砲は人を殺す罪悪感を無くすと書く。

兵站の話だが、戦国時代は一人一日3合の米が必要であり、1万人の兵だと1日で3万合=30石となる。それは4500㎏の米となる。1㎏500円だと、4500㎏だと225万円。戦が1ヶ月かかると兵糧代に6750万円となる。それに武器、馬(馬は飼料代)の代金が必要となる。こういうお金をかけての戦いであり、それなりの覚悟が無いとできない。また鎧兜は高価なものだった。

なお、兵の動員力は百石あたり2.5人程度である。1万石なら250人程度の軍隊である。

中世は一騎打ちの時代であり、騎馬による弓での戦いが中心。この時に郎党が助けるのはありとされていた。しかし源義経が壇ノ浦の戦いで採用した船の水主梶取(かこかんどり)を弓で狙う作戦は卑怯とされていた。武士特有の倫理観がある。

戦いは兵力=動員力の勝負である。戦いに確実に勝つのは相手の兵力の3倍を、戦闘局面に集中することである。

鎌倉時代の有力な家は300人くらいの兵隊を動員する。それが室町時代になると、2000とか3000人の兵力が、守護大名が自分の才覚で国の武士を動員できる規模となる。
それが信長の時代になると、もう一桁上がる。西洋ではナポレオンが国民皆兵で集めた。これだけの動員となると、プロでない兵士を動かす武器の工夫(長鑓で上から叩く、鉄砲など)が必要となり、また戦いにおける大義名分も大事となる。信長は大義名分を大事にする。

川中島の戦いは、戦いの後に川中島地域を支配したのが武田家だから信玄の勝ちである。武田の有力武将が戦死しても、戦争目的を成し遂げた方が勝ちである。
信長が越前攻めの最中に、浅井が反乱すると逃げたのは挟み撃ちの恐怖であり、兵糧が途絶えるのを恐れたためではないか。

本郷氏が唱える軍事に対して、小さな戦いのことも筆が走っていて、池田屋事件では天然理心流に刀を短く使う方法があり、室内で闘えたとか、軍上手な武将は立花宗茂であって、彼は家来に慕われていたとかの逸話も交じる。

日本では武が常に文を圧倒した。関ヶ原の戦いで家康が圧倒したから、ここからは実質的に家康が第一人者で、ここが江戸時代の起点と考える。

秀吉の戦いは革新的であって、兵站を重視していて、例えば敵の食料を買い漁ることをやる。また戦争を土木工事に置き換えて水攻めなどを行う。また「中国大返し」や賤ヶ岳の戦いでの大垣からの反転攻勢などの運動を軍事に入れている。

軍事に直接関係無いので、どういう脈絡でこの話が書かれていたのかは忘れたが、明治政府は才能を重視した政権で、広く人材登用を行い、当初は世襲をしない政権であった(のちに華族制度)と書く。




家康は江戸に厭離穢土をかけた

「歴史の余白」浅見雅男 著

副題に「日本近現代こぼれ話」とあるが、明治から昭和にかけての様々な分野の有名人に関するこぼれ話を幅広く集めた本である。
著者は、戦前の要職にあった人物の日記のことについても詳しく、そのような日記資料から得た話も多い。また日記に関して、公開された時の意図、校訂ミスのことなどの指摘も興味深い。

皇族の話も多く、例えば明治天皇には5人の皇子と10人の皇女がいた。昭憲皇太后は子を産めない体質で、皇子女は全て宮中に仕えていた公家華族の娘たちとのこと。ただ8人は成人に達しない内に亡くなる。
こういうことを知ると、側室が認められていない社会で、皇統を守ることの難しさを改めて思う。
なお伊藤博文の愛妾のことや、田中角栄の愛人で金庫番のことも書いている。昔はこの問題には大らかだったのだ。

有栖川熾仁親王、東久邇宮稔彦親王の日記のことや、美智子妃殿下が明治に民間から生まれた五日市憲法草案のことを評価されたことなども紹介されている。

東久邇宮稔彦は戦後、戦犯に指定されることを恐れ、自ら皇籍離脱などの動きをした。昭和天皇にも退位を勧めたようだが、昭和天皇は「秩父宮は病気、高松宮は開戦論者、三笠宮は若い。こういうことを東久邇宮は考えて欲しい」と苦言を呈したようだ。

公家、明治期の華族の話も多い。徳川家達が長く貴族院議長を勤めたことや、勲章等を拒否した原敬の逸話、徳富蘇峰が文化勲章を辞退した話もあれば、大平正芳の読書量の多さに触れている箇所もある。
大倉財閥を興した大倉喜八郎の閨閥作りや、その子の大倉喜七郎のことなども紹介されている。のちに大倉山ジャンプ競技場を作ったり、ホテルオークラを作った人物である。

森鴎外と井伏鱒二の話も面白い。森鴎外が「伊沢蘭軒」を書いた時、井伏は中学生だが、郷里の福山藩に伝わる話として、蘭軒が井伊直弼にそそのかされて阿部正弘を毒殺したとの言い伝えがあり、それを井伏鱒二が変名を使って森鴎外に手紙を書いて知らせる。鴎外から返事が来て、また彼の書いたものが小説の中で紹介される。事実は阿部正弘の亡くなる前に蘭軒も逝去していることで、この話は事実でないことを鴎外が記す。これを受けて、井伏は鴎外に返事を出すが、この時に変名の人物は死去したと、偽りを書く。すると今度は鴎外から架空の変名の人物への弔文が来て、井伏は反省したという逸話である。

2.26事件で殺された渡辺錠太郎のことと、当時、渡辺邸の近所にいた有馬頼寧の日記などに触れる。そして渡辺の寝室にいて、渡辺がかばって助かった娘が修道女として多くの書を出した渡辺和子であることを紹介する。

西田幾多郎の莫大な印税収入や吉野作造の経歴を収入面から記述する。吉野は生活が厳しい時は後藤新平の援助を受け、吉野はこの恩に対して、後藤の命日に墓前に出向いていたそうだ。

陸軍大将で後に戦犯となった今村均が戦時中、内村鑑三全集を読みたいと、部下に頼む。部下は野村胡堂の元にあることを知って、譲ってもらう。しかしこの全集は部下とともに撃墜されて今村に届かなかった。戦後、今村が御礼に野村の元を訪れたそうだ。

平沼亮三という人物のことも知る。彼は横浜の大地主で慶応に進み、各種スポーツを嗜む。自分の邸宅をスポーツ施設にし、そこでの食事メニューの一つがカツカレー(当時はスポーツライス)だった。アマチュアスポーツ界の貢献者として文化勲章を授与される。

スポーツの分野では、王貞治が国籍の件で国体に出られなかったことや、相撲界では玉の海が自身の八百長を反省し、大鵬の八百長を指摘していたことなどが書かれている。

「あなたに逢いたい」展  於佐野市立吉澤記念美術館

昨日、太田に出向く用事があり、その帰りに葛生に出向き、標記の展覧を観てきた。
収蔵品を元に、肖像画を中心に展示がされており、その為に肖像=あなたに逢いたいというテーマにしたのだろう。
入口に足尾鉱毒事件に抗議を続けた郷土の偉人「谷中村の田中正造」(塚原哲夫)が展示されていた。不屈の人柄を想像できるような作品で力強い。
ホアキン・トレンツ・リャドという画家の、オールドマスター的作風(暗い暗褐色の背景に光を浴びた肖像が浮かび上がるような絵)で、まさに油彩で描いた肖像画という女性像の作品2点である。凛とした女性で何か物憂げな表情である。いずれも襟元を少し崩したような姿で、何か意味があるのかと考えてしまう。
高山辰雄の「小鳥」は小鳥を手に乗せた女性を描いているが、女性の輪郭はオレンジというか緋色の衣装と背景が混在して明確でない絵だが、その分、しばらく観ていたくなるような大作であった。
藤井勉の「季節の中で」は女性の横顔を描いているが、平面的に見える。
伊東深水の「紅がく」は紺色の浴衣姿で黒髪豊富の、いかにも昭和前期の女性像である。
中山忠彦の「エマイユの耳飾り」「挿花」の2点が出品されていた。リトグラフの作品も1点展示されている。中山忠彦の作品らしく、いつもの婦人モデルがきらびやかな衣装を着て、宝飾品を身に付けている。このような作品一本槍の作家である。それだけ人気のある絵柄なのだろう。
森本草介の「初秋」「婦人素描」と2点掲示されている。繊細な優しい感じのする巧みな写実画である。素描の方が線の繊細さがよくわかる。

日本画のコーナーにある寺崎広業の「大宮人」は宮廷の男性貴族の表情が何とも言えずに味がある。この人物は何を考えているのだろう。
川合玉堂の「孟母断機」は孟子とその母との逸話を描いたものだが、いつもの玉堂の風景画とは違って意欲的な作品で、迫ってくる力強さがある。
小林古径の「神崎の窟」も大作で意欲作で、隅々にまで気を配って仕上げた立派な作品である。
狩野探幽の「十牛図」は、様々な牛の姿態を描いて、探幽らしくはない力強いところもあり、さすがである。同じ牛だが、姿態だけが違う絵になっている。

この美術館の目玉の板谷波山の陶磁器も5点飾られていた。この人の作品には気品を感じる。