「ここまでわかった本能寺の変と明智光秀」洋泉社編集部 編

来年の大河ドラマで明智光秀が取り上げられる為か、出版社が16人の研究者、作家にそれぞれのテーマで依頼した論をまとめたものである。テーマごとに分かれているから読みやすいと思ったが、そうでもない本である。断片的になっているからであろうか。
その16編は大きく「1.最新論点!本能寺の変」「2.明智光秀とは何者か」「3.変をめぐる周辺勢力と「その後」」に分けている。
近年話題となっている四国征伐を廻る光秀の重臣斎藤利光の兄石谷頼辰(石谷光政の養子で斎藤家出身)と長宗我部元親(妻が幕府奉公衆の石谷光政の娘)の従来の外交ルートと三好康長、その養子となった織田信長息子の信孝、及び秀吉の甥の信吉(後の秀次)の新たな外交ルートの争いが原因という説も紹介している。私はこの説が直接の原因なのかと思っている。
稲葉一鉄の家臣那波直治が明智光秀に仕えたことに対して、信長が稲葉家の肩を持った裁定を下したための怨恨説もあることを知る。これに斎藤利三が関与しており、このことで信長が光秀を通して利三に死罪を申しつけたとも伝わっているようだ。

信長の明国を征服する意図について、宣教師、特にスペイン系の宣教師は自分たちの武力の補完勢力として日本軍=信長軍を期待していた面はあったようである。

明智光秀は朝倉氏の元にいたことがあるが、室町幕府の幕臣だった可能性も指摘されている。後に光秀の家臣となった者は幕府奉公衆で京都近郊に領地を持つ武士、近江国志賀郡を任され後の近江堅田衆、南山城衆、大和衆(筒井)に丹波平定後の丹波の国人衆などである。

光秀は妻の煕子(ひろこ)だけを愛したとされているが、子女の年齢などから他にも女性が居た可能性を推測している。なお光秀妹とされている信長側室ツマ木(妻木)に関する史料も紹介している。面白い存在である。

柴田勝家は上杉氏と戦っていて、後背地の近江はいち早く光秀の味方になった地域というハンデがあったこと、丹羽(惟住)長秀は織田信孝とともに四国渡海の為に大坂にいたが、ともに在陣していた織田信澄が明智と通じているのではと討伐し、その影響で軍勢をまとめられなかったことを指摘している。
それに対して秀吉は帰路にあたる摂津の大名(高山、中川など)をいち早く味方にできた。

信長と和睦した石山本願寺は顕如(講和派)と息子の教如(反信長派)が対立。これが後の東本願寺と西本願寺に分かれる遠因と記されている。

本能寺の変(6月2日暁)は奈良にはその日の夜10時頃、三河には翌日(3日)の午後6時くらいに伝わっていることが日記などから判明する。秀吉は4日(3日深夜という説もある)、柴田勝家には6日とされている。情報が情報だけに早い伝達である。

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