「武士道 侍社会の文化と倫理」笠谷和比古 著

興味深く、読みやすく、内容が豊富な本である。武士道に関する本としては、新渡戸稲造の名著「Bushido」が有名だが、学会からは「武士道は明治になってから作られた造語である」とか、津田左右吉のように武士道賛美論に反対する意味も含めて、武士道とは裏切りと下克上の暴力的行動だと述べる向きもあった。
この本で著者は「武士道」という言葉が出ている江戸時代の書物から、武士道がどのように説かれていたのかを明らかにしている。
中世社会では「弓矢取る身の習い」「弓矢の道」と言われていた。「武士道」という言葉の初期の例として、加藤清正の『清正記』とか『武功雑記』に伊達政宗の言葉が紹介されている。そして『甲陽軍鑑』(小幡勘兵衛景憲が集大成)には武士道が頻出している。高坂昌信が述べたとされる言葉などにである。
また往時のキリスト教宣教師が編んだ『日葡辞書』には「武士道」は無いが「武道」の見出しはあり、そこに”武士の道”とある。なお「弓馬」の見出し語にも同じ意味がつけられている。

以下、近世前期(17世紀)の書物として『甲陽軍鑑』、『諸家評定』、『可笑記』、『武士道用鑑抄』、『七種宝納記』を取り上げ、内容を紹介している。
勇猛果敢に前線に出て敵と戦う振る舞いを勧め、未練を取るな、先祖からの家名を断絶するな、親兄弟の仇討ちをしろ、主君の御用に立つことだけでなく、次のような徳目も強調している。
悪質な嘘をつくな。「武士に二言はない」(正直)、自慢するな、暴慢の態度を取るな(謙虚)、武道具を愛好しないで不要な金銭を費やすな(節制)、おべっかを使うななどが尊重されている。それから証拠に基づいて述べることも強調している。
また少しは漢籍、芸事も学べと述べる本もある。

近世中期(18世紀)になると『葉隠』、『武道初心集』、『武学啓蒙』など、武士道をより体系的に論じた本がでる。
『葉隠』(山本常朝)で「死ぬことと見つけたり」は、そのような心構えを持つことで武道に自由を得て、落ち度無く家職を全うできると説く。死狂いの行為で、そこに分別など生じてくれば、主君に対する忠義も親に対する孝行もできないと言う。

また著者は、武士道の慣行としての「武家屋敷駆込慣行」を取り上げている。幕府、諸藩も禁じているのだが、武士道には存在し、18世紀中頃の『古老茶話』(柏崎永以)で「徳川家中は人を斬りたる駆込者があったり、かくまってくれとの駆け込み者があっても武士道をもってかくまうことのないのが大法で、一般の武家屋敷とは違う」と書いている。
『明良洪範』(真田増誉)にも徳川頼宣が当家は御三家だからとして、上記同様のことを述べている。
時の刑法である『公事方御定書』に頼まれて隠した者は追放とある。しかし徳川吉宗は武士が盗人を隠すのと違う事情のある場合は急度(きっと)叱申すの軽い刑にすべきと加筆している。徳川宗家も「武家屋敷駆込慣行」をある程度容認していたのだ。
その背景として、武士道には忠、義、勇の他に頼もしき意地も大事で、「頼む」と言われ、「頼まれたぞ」と応諾したら、守るべきということがあると書く。

それから「敵持ちたる者は随分討たれぬようにするが誉れなり、いか様の事なしても逃げるがよし(中略)随分逃げて返り討ちにするのはなお大手柄」とある。
武士道は仇討ちを奨励するが、それから逃れ、返り討ちにするような武士も認めている。すなわち徹底的なサバイバルの思想で、死ぬことだけを勧める思想ではないと説く。

近世後期(19世紀)では『尚武論』では中国の儒教の孝行よりも、主君への忠義が大事。真田家の当主が親とは別に徳川方についたりしても非難されないのはその為と儒学を批判している。
これは、忠の見返りに知行・俸禄をもらう。それが武士の家。忠を通せば家が持続できる。それが孝となる。儒教を中心とする中央集権国家が孝を第一にするのと違うとする。
その忠に関して「主君押込」があった。すなわち主君が悪いと、家臣が諫言し、それでも直らないと家臣団が主君押し込めるということである。

切腹とは自らの責任の重さを自覚し、その責任を回避することなく自ら敢然と引き受ける態度の表明。

礼儀は名誉の観念と不可分。無礼が名誉の毀損になり紛議につながるから礼儀が大切。

武士は事実尊重。証拠主義。空疎な観念論的議論を嫌う。事実を重視し、事実認定の根拠となる証拠を重んじる。イコール嘘を嫌う。儒教と大きく違う。
戦場は動くから、現実に即して対処が必要ということである。
ヨーロッパの騎士道は女性は常に保護の対象。日本は女性にも開かれていた。

そして、著者は武士道における信義・信用重視は一般庶民にも広がり、これが近世の発展に道をつけ、また幕末当時に、日本が植民地にならないのは①強い危機感を持って国防の必要性を早くから説く。オランダから世界情勢を仕入れていた。②欧米強勢の元は巨艦と大砲と現実を正しく認識し、それを学習しようとし、ペキサンス砲(ナポレオン戦争で開発。射程1500㍍におよぶ炸裂弾丸を放つ)の重要性を、幕府は江川英龍、諸藩では薩摩藩、佐賀藩、長州藩が認識・製造していた。そして薩摩は砲でイギリス軍鑑を撃退している。

相手の強さを証拠で確認し、負けじ魂を発揮して独立の気概で、良いものは良いと学習する態度が武士にはあった。
儒教的論理は大義名分論で、自国は中華で文明の中心、外国は夷狄で野蛮。だから中華が夷狄を教化して文明世界に広める。夷狄からは学ばないという国とは違っていた。

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