「黒船以降」 山内昌之、中村彰彦 著

副題に「政治家と官僚の条件」とあるように、幕末の各人物の事績・人柄を著者2人の対談で浮かび上がらせている本である。内容豊富な面白い本であった。山内氏はイスラム史など世界史の権威であり、幅広い視点も面白い。中村氏は歴史小説家で幕末の会津のことなどを書いて、幕末の歴史全体に豊富な知識を持つ。

本は「徳川官僚の遺産」「徳川斉昭と水戸学」「薩摩と長州」「一会桑」「ふたたび徳川官僚の遺産」という5章に分かれている。各章で徳川幕府の官僚群の優秀さを指摘している。

各章のタイトルが、その章のメインのテーマだろうが、「徳川官僚の遺産」では小笠原諸島が日本領となった経緯や日本が植民地にならなかった世界史的背景を整理していて興味深い。
小笠原諸島には、ハワイ先住民や白人が住み着いていて、ペリーは貯炭場としようとしていた。イギリスも立ち寄り、基地もあった。イギリスが領有権を主張するも、アメリカは日本と開国交渉中であり、日本領と認めた上で借りればいいと判断。

日本が欧米の植民地にならなかったのは①幕府はアヘン戦争の教訓を学んだこと。②アヘン戦争はイギリス国内でも評判が悪く、イギリスも控える。③幕府も薩長も太平天国での内戦の悲劇を知ったこと。④アメリカは南北戦争が最優先。⑤イギリスとフランスがアヘン戦争からアロー号事件で中国にかかりきりだった。⑥クリミヤ戦争で、英仏両国とロシアは交戦中。

「徳川斉昭と水戸学」の章では、水戸藩が難治の地であったことを語る。光圀は検地で1間6尺3寸を6尺にする。28万石が36万9千石になる。そのため3年続けて飢饉。実質は15万石。観念を優先させる。次の代に石高が35万石と認められるが格式だけ。幕末の実収は約6万石程度。
家臣団も混成で、4割が武田信吉(家康5男)と一緒に来た武田遺臣団、それから佐竹の遺臣、徳川直参、北条家に仕えていた人、土豪などが交じる。
加えて藩主が江戸定府であり、家臣団は江戸と国元の対立しがち。
これで、幕末に壮絶な党派争いで消耗する。復讐劇が終わるのは明治の代。

「薩摩と長州」では、長州は後に瀬戸内海交易で資本を蓄積。塩田開発も行い、20万石以上は塩でまかなえる。八代重就の時に撫育方が設置され、開発方として検地を行い、特別会計にして、米、紙、塩田開発、はぜろうなどの増産を行う。宝暦検地では長州藩は支藩も入れて90万石くらいになる。明確にはわからないが朝鮮などと密貿易をやっていた。
長州はお金があったから京都でも遊ぶ、だから人気があった。会津はもてなかった。

薩摩は藩主も実際に戦うことで外交力を発揮(関ヶ原も)し、造士館で中国通詞を養成して、琉球を通じた貿易、密貿易をしている。砂糖の収入も大きかった。薩摩は飢饉のがなかった国である。武士が多く、独特の二才(にせ)教育。

長州は井上聞多や伊藤俊輔が英国に留学して、攘夷派から開国派に転じ、高杉も上海に渡っている。彦島の租借の話があったとき、条約をするなら英国は長州を一つの国と認めたことになる。今後、英国は日本の300諸侯の国家を相手にするのかと言い出す。

「一会桑」とは一橋、会津、桑名藩のこと。このグループは京都にいて、江戸の幕閣とも対立していた。長州や薩摩の当初のターゲットは会津ではなかったか。それが倒幕になった。
会津藩は秋月悌次郎が薩摩の高崎左太郎とルートがあり文久の政変を主導したが秋月は蝦夷に左遷されて情報ルートが無くなる。
桑名は11万石だが、柏原の飛び地が6万石であり、兵力の影は薄い。ただ立見尚文の軍は強かった。一に桑名、二に佐川…会津の佐川官兵衛、三に衝鋒隊…見回り組と幕臣と称されていた。
会津は京都に残り、長州征伐に参加しなかったから、長州がゲベール銃からミニエー銃になり、後にスナイドル銃、スペンサー銃と改革していく動きに会津は遅れる。
ドイツのスネル兄弟は、故国プロイセンを北方諸藩に見立てて支援。兄は松平容保の軍事顧問のようになり平松武兵衛という名前をもらう。明治維新後に会津藩の遺臣の家族40人をつれてカリフォルニアに移住。ワカマツ・コロニー。しかし失敗して行方不明。
長岡の河井継之助がガットリング砲を購入したのもスネルからである。

「ふたたび徳川官僚の遺産」ではイギリスは自国の名誉革命をイメージ(カトリックを国教としようとしたジェームズ二世を追放し、オランダからオレンジ公ウィリアムを招きいれて、人民の権利の章典を定め、立憲君主制に移行)して薩長を支援し、フランスの公使ロッシュは幕府を援助して、ナポレオン三世の役割を慶喜が果たすことを期待したのか。

榎本武揚はオランダ留学中に赤松則良とともにプロイセン、デンマーク戦争を視察。小さな王国が同じ君主を懐いて連携。だから蝦夷共和国の発想をもったのではないか。維新後に黒田清隆が北海道開拓の長官になるが、榎本を助命して、徳川のテクノクラートを蝦夷に招く。

「語り継ぐこの国のかたち」半藤一利 著

この本は著者が色々な雑誌等で発表したものを取りまとめた本である。表題に含まれる「この国のかたち」とは司馬遼太郎の造語であり、評論である。それを借りて、老齢になった著者の思いを書いたものをまとめている。
著者の言わんとするところは次の通りである。「2度と戦争をするような国になるな」、「政治家は正しく、国の現在及び将来の本当に為になることを実施する信念を持て」、「世の動きに迎合せずに常に正しいことを言う勇気が必要」、「言論の自由が社会を健全にしていく鍵だから大事にしろ」、「本当の知識人とはどのような人物かを小泉信三を例にして説く」、「日本、及び日本人の美点を大事にして後世に伝えていけ」、「歴史を学ぶのは過ちを繰り返さないために大事」ということである。
これらを事例を交えて具体的に説いている。

戦争にからんでは、統帥権の問題、当時の参謀の無責任体質(服部卓四郎、辻政信)などを司馬遼太郎との対話の中などから書いている。

信念を持った政治家として例に上げたのは陸奥宗光のことである。また世に迎合せずに正論を吐き続けた石橋湛山のことを書いている章などが参考になる。
小泉信三のことだが、人に面と向かって言えないことを、言論の自由の美名のもとで書いてはいけないと述べられていたそうだ。

司馬遼太郎のことも日本、日本人の美点の章で書いており、彼が晩年に嘆いていたことが記されている。また晩年にノモンハン事件のことを取材していた事実を明らかにして、その執筆を断念した理由なども参考になる。須見新一郎連隊長(小松原道太郎師団長の無謀な命令を拒否したこともある)という見識のある軍人を取材していたが、司馬遼太郎と瀬島龍三がどこかで親しげに対談されている記事を見た須見氏から、あんな人物と付き合っている人との取材は拒否するし、これまでの取材内容も無かったことにしてくれと言われたようだ。

「真田丸の謎」千田嘉博 著

この本は大河ドラマ「真田丸」開始の2ヶ月前に出版されており、便乗本の一つである。
従来、真田丸は大坂城の外側に張り出していたと考えられていたが、広島浅野家の文書に「摂津 真田丸」というものがあり、それは大坂城とは離れた場所にあって、当時の地形を生かした出城であったことが判明した。
このことも、NHKの番組でも取り上げており、それを本にしたものである。「1.真田信繁と大坂の陣」「2.真田丸の謎に迫る」「3.真田氏の城づくり」「4.戦国の城から天下人の城へ」「終章.真田丸を歩く」に分かれているが、本のタイトルに関係するのが、1章、2章と終章であり、分量が不足するから著者の城郭に関する知見を半分の分量ほど挿入してある。もっともこの部分(4章)は中世の城郭を理解する上で参考になった。

さて真田丸は、現在の明星学園を中心とした場所にあり、北側に小曲輪があった。三光神社の区域とは低地を挟んでいた。真田丸と大坂城との間には約200㍍にも及ぶ谷(清水谷)がある。だから大坂城からの援軍も期待できない背水の陣を敷いたことになる。豊臣側が新参の真田信繁に真田丸構築を許したのも、ここなら真田が裏切っても大きな影響はないと判断したからではないかと著者は考える。前面に徳川軍が来るわけであり、危険な部署であることは間違いがない。
なお三光神社境内などにある真田の抜け穴とよばれるものは、徳川方の塹壕ではないかと述べており、なるほどと思う。

戦国時代の城について、当時の社会の成り立ちの変化から説明しているのがなるほどと思う。この時代、武士だけでなく、有力な寺社も、自治的な都市も村も、城を構えて、生命と財産を自力で守っていたわけだ。
戦国後期は戦国大名が山城(200㍍くらいの高さ)と、平地に館城を構え、平時は館城で政務をとり、戦時に山城(200㍍くらい)で戦う。
武田信玄は本拠は館城だが、領地の「境目の城」は戦争用に馬出しなども構築して作る。この伝統を真田氏も受け継ぐ。北条氏も支城のネットワークを作り、堀には障子堀という堀の中に凹凸を障子のような畝を作って渡り難い工夫をする。横矢(横から攻撃)ができるような建物の配置も考えている。上杉氏も畝状空堀群をつくる。

「境目の城」は軍事用で中央からの司令官が住むが、平時は家臣団(国衆)は本拠のまわりに集まっているだけ。大名と家臣の力が拮抗した連合勢力で、まだ中央集権ではなかった。だから負けると、国衆の裏切りも起こりやすい。

織田信長は重臣に信頼されなかったから、自力で親衛隊を作る。そして中央集権で重臣を従える形で城下町に集め、住まわせるようになる。そこから城の天主が立派になり、城下町となる。信長の城は小牧山城でつくられはじめ、本丸を特別な空間とした。岐阜城はさらにそれが進む。安土城は天主と自分を神のようにした。家臣は山麓から身分に応じて序列化された屋敷を与えられる。
秀吉は大坂城という私の城とは別に聚楽第(実質は城)という公の城を作る。秀次事件後に聚楽第は壊され、公の城は伏見城になる。その城に秀吉の死後、家康が入り、天下人の一歩とする。
二条城は関ヶ原後に家康が京都に作った公の城。そこに秀頼を呼びつけたことも大事なセレモニー。

一国一城令、元和偃武は、江戸時代において、各藩で大名が偉く、以下君臣関係の序列が必要になったということを反映して、信長、秀吉が作った城をマネして、階層的に本丸、二の丸、三の丸ができる。。

惣構とは、中に城だけでなく保護すべき民衆も取り込んだ塀(土塀)、堀で囲まれた一郭。
有岡城が萌芽で、城下町を持っていた。総構は身分を区分する役割があると同時に、軍事の役割があり、惣構の一角が破られると城側が降参することが多い。
惣構が広くなると自分だけでは守れない。友軍が来る場合に敷地が必要という面もある。惣構の住民は城と一緒に戦うが、負けるとなるとさっさと出て行ってしまう。民衆はしたたかである。
寺社も願寺や清水寺、東寺など惣構を持っており、寺内町と呼ばれていた。京都でも秀吉は聚楽第を中心に御土居を築くが惣構である。

「戦国軍旗と大坂の陣」小和田哲男監修

先日、所蔵の透かし鐔の文様が、福島正則隊の軍旗である「山道文」ということに気が付いたから、この本を図書館で見つけて読んだ。雑誌の一種であり、特に真田幸村のことを特集している。大河ドラマの人気を当てこんで出版されたものだろう。
軍旗の方は、大坂の陣屏風をもとに、説明しているが、あまり目新しいものはなかった。キリシタン大名の明石全登(てるずみ)の旗が「白地に花クルス二つ」というものでなるほどと思う。また小西行長の軍旗にやはりキリシタン的な「白地に中結び祇園守り」があったことが推定されている。また福島隊とは違う「白地に青の三本山道二つ」の軍旗があったことが記されている。

丸を3つ並べた軍旗も、白い餅を遇したもので、白餅=城持ちにかけて好まれたようだ。宇喜多秀家が「黒地に白餅三つ」、石田三成が「黒地に朱の丸三つ」、大谷吉継の「白地紺の丸三つ」、「紺地白餅三つ」、藤堂高虎の「黒地白餅三つ」「赤地黒餅三つ」「白地朱の丸三つ」「紺地白餅三つ」、長宗我部盛親の「地黄に黒餅三つ」などがある。

読み物では真田家の戦いに特化しており、第一次上田合戦、第二次上田合戦、大坂の陣(冬の陣と夏の陣)のことが詳しいが、特に目新しい感じはしなかった。他は関ヶ原の戦いを書いている。

「興津彌五右衛門の遺書」「阿部一族」「堺事件」 森鴎外 著

森鴎外の時代小説である。「興津彌五右衛門の遺書」は細川三斎の臣で、長崎で安南からの船が輸入した珍しい品を購入するように同僚と派遣された主人公が、一番良い香木を買おうとする。伊達家も、それを狙っていて、値が釣り上がる。同僚はそこまで高い値で買うようなものでなく、一ランク落ちたものでもいいのではと言うが、主人公は主命だからと譲らず、結局、この諍いで同僚を殺し(先に手を出したのは同僚の方)、一番良い香木を入手する。
帰国後、三斎に同僚を殺した顛末を言上して、切腹の許しを乞うが、許されずに、その後も三斎公亡き後も勤めを果たす。そして三斎公の十三回忌に切腹することになり、その経緯を書いた遺書という形式の小説である。

乃木大将が明治天皇に殉じた時に、発表した小説として有名である。乃木大将が若年の折の軍旗紛失の責任を常に思いながら殉死に到るが、それに触発された面も確かにあると感じる。

「阿部一族」は細川忠利に仕えた重臣が、殉死の許しが得ないで、新藩主に仕えていたが、寵臣や大事にしていた鷹や、犬の世話をしていた小者までが殉死する中で、白い目を向けられて、許しのないまま殉死する。その後、阿部家は総石高は変更無いものの、一族に分割され、他の殉死の家族に比べて不遇であった。
藩主の法要の時に嫡子は、そこで髻を切るようなことをして、新藩主の怒りを買う。その後、新藩主からの討っ手が派遣されることになり、一族は討ち死する。その折の親しい燐家とのやりとりなどが小説の綾をなす。
殉死に対する問題的とも考えられる。

これは原本となるような古史料があり、それを脚色したものである。森鴎外なりに、乃木大将の殉死を考えていたことは理解できる。

「堺事件」は維新後に堺の治安維持を任された土佐藩が、不法にやってきたフランス人水兵を殺す。フランス政府が賠償と、処罰を求め、土佐藩は殺したフランス人と同数の警備兵を切腹させることになる。
フランス側からの検視も来るのだが、切腹の凄惨な現場を見て、途中で退席してしまい、執行人数は減じられる。
土佐藩士の気分、意気がよく書けている。

これらの森鴎外の時代小説は、小説というよりは事実(本当の事実かは不明だが)を淡々と書いているような感じである。

「いちまき」 中野翠 著

「いちまき」とは同一の血族集団という意味だそうであり、この書は著者の曾祖母にあたる中野みわ氏が遺した『大夢 中野みわ自叙伝』という和紙に筆書きの書物と出会ったことから著者が自分の一族のことを調べていった本である。
中野みや氏は安政6年に生まれ、その実家は関宿藩久世家の江戸家老を務めていた木村家である。父の木村正右衛門正則は佐倉藩の岩瀧家から養子に入った人物である。
幕末の関宿藩も他の多くの藩と同様に、佐幕派と勤皇派に分かれ、抗争していた。木村正則は佐幕派の頭目の一人として、彰義隊の戦いにも参戦して、敗走する。その過程で、実家の佐倉藩岩瀧家の係累を頼ったりして、最期には静岡の沼津兵学校で教えるようになる。この頃は山田大夢と改名して平民となり、息子には幕臣黒川家の身分を買うようなことをしている。
維新の時の敗軍の物語は、会津でも幕府でも尾張でも各藩にあるが、関宿藩にもあったわけである。歴史はどうしても勝者の歴史だから敗軍の佐幕派は守旧派・反動勢力として、良くは語られていない。

曾祖母の自叙伝の中味はあまり紹介されておらずに物足りない。関宿藩の桜田門外の屋敷で生まれたとあったのを、著者が桜田門内に久世家の屋敷があった古地図にめぐりあったり、逃走の過程で隠れ住んだ場所の近くに著者が暮らしたことがあったりなどの因縁話を絡めながら筆を進めていく。
いちまきの祖先が暮らした土地を著者が尋ねることが後日談として8つ装入されている。

佐倉藩の岩瀧家の親戚に洋画家浅井忠がおり、筆は浅井忠のことに飛んだり、その知人の依田学海のことを記述したりする。それぞれに興味深い。依田学海は私が本を書いた時に土方歳三が刀の件で依田学海に述懐した言葉を引用しており、馴染みがあった。

私などは幕末当時に生きていれば、佐幕派に属しそうであり、こういう人の苦労話は身につまされる。また明治維新とは不思議な革命だったと思う。

「負け組の日本史」山本博文 著

日本史において、ある局面で敗者となった人物に焦点を当てて、その人物や子孫が、後に復活したとか言うエピソードを簡単に取りまとめたものである。
全部で70の話題を取り上げている。だから、当然に1つの挿話は短く、読みやすい。その70を「1.「節目の大戦」で敗れた負け組」、「2.しぶとく「生きのびた」負け組の執念」、「3.意外と「出世した」負け組の大逆転」、「4.いつの間にか「消えた」負け組のゆくえ」、「5.「現代まで続く」あの負け組の子孫たち」に分類しているが、この分類に意味があるとは思えない。編集の方で分類したのであろう。

古代の物部氏、蘇我氏、安倍氏から、戊辰戦争時の人物まで幅広い。函館で負けた榎本武揚、大鳥圭介が薩摩の黒田清隆などの取りなしで許され、明治になって活躍する経緯や、真田信繁(幸村)の子孫が伊達家で匿われて、それなりに遇されて生き延びたことも興味深い。よく戦う者は互いを認めるというような武士道から生まれたことだろうか。

石田三成の次男と三女は津軽信建に連れられて陸奥に行き、杉山と名字を変えて、後には津軽家と縁戚になっている。津軽為信が小田原攻めの時に石田三成の仲介で本領を安堵された恩からともいわれている。

足利義昭が豊臣秀吉の御伽衆として1万石の大名に復活していたことを知る。秀吉自身の権威付けの一環であろうか。京極家は蛍大名といわれ、妹と妻によって家が再興されたことを当時から揶揄されていたようだ。

里見家の没落は大久保長安事件からなのだが、哀れである。
琉球王朝家のその後も初めて知る。もっとも、それぞれのエピソード、記述が短いから、記憶に残りにくい。

昔は側室を持つのが当たり前であり、そういう意味で子孫が残るケースも多く、その子孫からの再興のエピソードも多い。
新書らしく、すぐに読める本で、面白い話題となる逸話を仕入れるのに良い本である。


「マリアノ・フォルチュニ 織りなるデザイン展」 於三菱一号館美術館

知人からチケットをいただき、標記展覧会に妻と出向く。自分自身ではチケットを購入して出向かないような展覧会も「えっ、こんな作家がいたの?」と言う新鮮な驚きが生じることがあり、好きである。
標記展覧会は絵画というより、女性の服飾デザインがメインであり、美術としての”驚き”は無かった。

マリアノ・フォルチュニとは20世紀はじめに活躍した服飾デザイナーで、スペインのグラナダで生まれ、ローマとパリで育ち、ヴェネツィアで制作したとある。父もオリエンタリズムの画家、母の家系も父祖がプラド美術館の館長を務めたりという芸術家一家に生まれる。

繊細なプリーツの絹のドレス「デルフォス」(繊細なプリーツを施した絹のドレス)で有名で、今回も色合いが異なった同種の「デルフォス」が展覧されていた。どんな衣装かと言うと、オリンピックにおいてギリシャで聖火の採火が行われる。その時のギリシャ人の衣装だ。
ギリシャに「デルフィの神殿」があるが、そこに因んでいるのだろう。

日本から輸入の最高級の絹地を鮮やかな色彩に染め、繊細なプリーツを施したドレス「デルフォス」の他に絹ベルベットにエキゾチックな模様をプリントしたマントやジャケットなども展示されていた。日本の着物のようなデザインも多い

軽くて華やかな「デルフォス」は、それまで身体を極度に締め付けていたコルセットから女性を解放し、女性の肢体の自然な曲線を美しく飾ったとされている。
私は、服飾の分野のルネサンス(古代の復興=ギリシャ式の採用)をしたのがフォルチュニだと思う。この人は画家、写真家、染織家、舞台美術デザイナー、染織器械の発明家でもあり、15世紀のルネサンス人レオナルド・ダヴィンチと同様に多芸である。

またギリシャ、日本に影響されていることは19世紀末にヨーロッパで流行したオリエンタリズムの影響も受けていたわけである。

画家としては父が古典的、オリエンタリズム溢れた重厚な絵画であるが、彼もそんな感じで、あまり面白くない。当時、勃興した印象派とは無縁の絵画である。
また 舞台美術デザイナーとしての展示は、舞台があるわけではないのでわかりにくいが、ワーグナーの歌劇の舞台美術で間接照明を使ったことが記されていた。一つの装置で朝、昼、夜の照明を出すことができたそうだ。

観客は少ない。また館内は21度に設定しているようで、寒かった。外は37度だが。

「戦乱と民衆」磯田道史、倉本一宏、F・クレインス、呉座勇一

この本は、国際日本文化研究センター(日文研)に所属する学者が、一般公開シンポジウム「日本史の戦乱と民衆」を開催し、その時の講演録・議事録等をまとめたものである。
倉本一宏が白村江の戦いに駆り出された民衆のことを、呉座勇一が土一揆と応仁の乱での民衆のことを、F・クレインスが大坂の陣における民衆の動向を、磯田道史が幕末の禁門の変の時の京都の民衆の姿を講演している。

戦争で民衆は悲惨な目に遭うが、一方で民衆は略奪に加わったり、儲けたりするしたたかさを持っていることを明らかにしている。

白村江の戦いで日本軍は敗れるが、その一因は唐の軍勢は国家軍で訓練されて統制があるのに対して、日本軍は豪族軍の寄せ集めで、大王の命を受けた地方豪族が、自分の支配する地域の農民を連れて出兵しただけで、兵は戦うモチベーションに欠けていたと指摘。
興味深いのは壬申の乱で勝利した大海人皇子は新羅に出向かなかった東国の兵が主体。一方、大友皇子の兵は新羅で疲弊した西国の兵だった為と書いていることだ。

土一揆と応仁の乱では、京都周辺で土一揆のあった年と、無かった年の表を作成し、土一揆の無かった年とは、応仁の乱があった期間。すなわち土一揆に参加した民衆と応仁の乱で足軽で参加した人は重なることを示していることだ。
民衆は虐げられた可哀想な人であると同時に、戦場で不法な荒稼ぎをする逞しさを持っていたということを実証している。

大坂の陣における民衆のことを、オランダ商館、キリスト教関係の史料から明らかにしている。民衆は戦争が始まりそうだとなると、逃げるわけである。空になった住まいに大坂に参じた牢人が居住するということだ。大坂方は統制が取れていない牢人。一方、徳川方は各藩の軍兵。だから徳川方の方が安全などと民衆は判断する。双方ともに、民衆の住家は攻めるに邪魔なら壊すし、守るのに邪魔なら焼き払うということ。

禁門の変の時は、会津方が民家に火をつけたことが書かれている。だから、これ以降に京都の人は会津を憎み、勤皇方となる。長州の潜伏ゲリラを恐れた為である。京都は「鉄砲焼け」で江戸期30万の人口が、維新後の明治4年に23万となり、これが首都が東京に移転した一因としている。その点、江戸はいなくなった旗本屋敷が残った。

以下はシンポジウムの中での討議から。
京都守護職の下で人集めしたのが会津小鉄。戦争で儲けようとする人もいた。
防人の歌は98首あるが、妻や恋人を慕うのが40.2%、母を思うのが24.1%、戦いの悲哀を読んだのが3.4%、忠君の歌は3.4%、体制批判、防人を嫌うのが3.4%。子を思うが2.4%(これは若い人だからか)
中世ヨーロッパでは戦争は騎士の特権。騎士同士が戦う時に騎士道。負けた方は捕虜になり、身代金が要求される。日本は首を取る。
鳥羽伏見で、会津と新撰組の抜刀隊は銃の狙いが夜はわからないから、民家を焼いた。また幕府軍は1~2㍍間隔で進軍。だから大砲が効果的だった。
太平洋戦争で京都は爆撃されなかったとされるが、爆撃はされており、原爆の目標として、その効果を確かめるためにあまり爆撃しなかった。奈良は人が少なく、効果が少ないから爆撃されなかっただけで、文化を守ったわけではない。その戦争で壊されなかった京都は戦後、建て替え等で壊されている。ワルシャワやドレスデンは壊されても旧市街を復旧した。意識が違う。

「冬の派閥」 城山三郎 著

幕末の尾張藩藩主徳川慶勝を主人公にした城山三郎の小説である。この人物は尾張藩支藩の高須藩から養子に入った人物である。異母兄弟になるが会津藩松平容保、桑名藩松平定敬がいて優秀な家系である。徳川慶喜は従兄弟にあたる。
慶勝も優れた人物だが、城山三郎は幕末の激動に翻弄された人物として描く。その幕末とは周知のごとく、日本中の各藩で、大別すると鎖国攘夷、開国して力を付けての攘夷と、幕府を立てて協力する佐幕、まずは天朝の御意志を大事にする勤皇という党派対立があった。
尾張藩も勤皇攘夷の金鉄組と佐幕のふいご組の対立があった。家老格の成瀬家は金鉄組に近く、同じく竹腰家はふいご組に近く、藩内は二分されていた。尾張藩は御三家であるが、昔から勤皇の意識が強かった。これは水戸藩と共通する。
慶勝も勤皇の志が厚く、鎖国攘夷であった。また藩主に擁立されるまでに藩内の対立があり、藩内の勤皇派の支持を受けていた。しかし慶勝は、過激な思想ではなく、「一和」の言葉で表されるような穏やかな政治的な態度である。
時代の動きは激しく、慶勝のそのような穏やかな態度が許されないような時代の波が襲う。
慶勝と親交のある水戸の徳川斉昭、越前の松平春嶽の人柄、考え方などもよく書けていると思う。

激動の時代の中、朝廷の命令として、佐幕のふいご組の主立った者が粛清される青松葉事件が起きる。青松葉とは槍の半蔵の子孫で佐幕ふいご組の渡辺新左衛門が自分の知行地からの年貢米が判別できるように青松葉を挿したからとも言われている。
この時の朝命は、どこから、どのような理由で出されたかも不明なままに粛清される。

この事件で粛清側に立った金鉄組の諸氏に、”たたり”と思えるような変死事件が続き、それが維新後の物語に絡んでいく。維新後の物語とは北海道の八雲に尾張藩士が移住して開拓していく話である。ここからは主人公が開拓に出向いた慶勝側近の医師に替わるような小説手法である。

慶勝の気持ちになりきって、従兄弟の徳川慶喜の人柄・変節していく態度を上手に描いている。歴史を読むよりに、この小説の方が当時の慶喜の行動を的確に描いていると感じる。

「大義」が先の戦争で持ち出されたように、「朝命」が戊辰戦争時には問答無用の基準になったわけで、そのようなもののいかがわしさ、それがはびこる時代の空気に城山三郎なりに問題提起している。やるせなくなるような小説である。