「戦乱と民衆」磯田道史、倉本一宏、F・クレインス、呉座勇一

この本は、国際日本文化研究センター(日文研)に所属する学者が、一般公開シンポジウム「日本史の戦乱と民衆」を開催し、その時の講演録・議事録等をまとめたものである。
倉本一宏が白村江の戦いに駆り出された民衆のことを、呉座勇一が土一揆と応仁の乱での民衆のことを、F・クレインスが大坂の陣における民衆の動向を、磯田道史が幕末の禁門の変の時の京都の民衆の姿を講演している。

戦争で民衆は悲惨な目に遭うが、一方で民衆は略奪に加わったり、儲けたりするしたたかさを持っていることを明らかにしている。

白村江の戦いで日本軍は敗れるが、その一因は唐の軍勢は国家軍で訓練されて統制があるのに対して、日本軍は豪族軍の寄せ集めで、大王の命を受けた地方豪族が、自分の支配する地域の農民を連れて出兵しただけで、兵は戦うモチベーションに欠けていたと指摘。
興味深いのは壬申の乱で勝利した大海人皇子は新羅に出向かなかった東国の兵が主体。一方、大友皇子の兵は新羅で疲弊した西国の兵だった為と書いていることだ。

土一揆と応仁の乱では、京都周辺で土一揆のあった年と、無かった年の表を作成し、土一揆の無かった年とは、応仁の乱があった期間。すなわち土一揆に参加した民衆と応仁の乱で足軽で参加した人は重なることを示していることだ。
民衆は虐げられた可哀想な人であると同時に、戦場で不法な荒稼ぎをする逞しさを持っていたということを実証している。

大坂の陣における民衆のことを、オランダ商館、キリスト教関係の史料から明らかにしている。民衆は戦争が始まりそうだとなると、逃げるわけである。空になった住まいに大坂に参じた牢人が居住するということだ。大坂方は統制が取れていない牢人。一方、徳川方は各藩の軍兵。だから徳川方の方が安全などと民衆は判断する。双方ともに、民衆の住家は攻めるに邪魔なら壊すし、守るのに邪魔なら焼き払うということ。

禁門の変の時は、会津方が民家に火をつけたことが書かれている。だから、これ以降に京都の人は会津を憎み、勤皇方となる。長州の潜伏ゲリラを恐れた為である。京都は「鉄砲焼け」で江戸期30万の人口が、維新後の明治4年に23万となり、これが首都が東京に移転した一因としている。その点、江戸はいなくなった旗本屋敷が残った。

以下はシンポジウムの中での討議から。
京都守護職の下で人集めしたのが会津小鉄。戦争で儲けようとする人もいた。
防人の歌は98首あるが、妻や恋人を慕うのが40.2%、母を思うのが24.1%、戦いの悲哀を読んだのが3.4%、忠君の歌は3.4%、体制批判、防人を嫌うのが3.4%。子を思うが2.4%(これは若い人だからか)
中世ヨーロッパでは戦争は騎士の特権。騎士同士が戦う時に騎士道。負けた方は捕虜になり、身代金が要求される。日本は首を取る。
鳥羽伏見で、会津と新撰組の抜刀隊は銃の狙いが夜はわからないから、民家を焼いた。また幕府軍は1~2㍍間隔で進軍。だから大砲が効果的だった。
太平洋戦争で京都は爆撃されなかったとされるが、爆撃はされており、原爆の目標として、その効果を確かめるためにあまり爆撃しなかった。奈良は人が少なく、効果が少ないから爆撃されなかっただけで、文化を守ったわけではない。その戦争で壊されなかった京都は戦後、建て替え等で壊されている。ワルシャワやドレスデンは壊されても旧市街を復旧した。意識が違う。

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