「現代語訳 家忠日記」中川三平編

徳川家康の家臣松平家忠(後に伏見城で鳥居元忠とともに戦死)の日記の現代語訳である。一次史料としてよく使われるものであり、興味を持っていたが、現代語訳ということで紐解いた。
我々の日常がどうと言うことのない日々が続くように、この日記も大半はどうと言うことのない日常が簡単に記述されている日記である。現存するのは天正五年十月十六日から文禄三年九月の18年分に、飛び飛びの分である。
松平家忠は天正三年に父と長篠の戦いに参加し、父は戦死している。以降、家康の戦いに動員され、天正十八年に家康が関東に封じられた時に武蔵忍城一万石の封地を得る。その後に下総小見川に転封される。

大部な日記であるが、精読ではないが一通り目を通す。

現代語訳であるが、「家康」と敬称もつけずに日記に書いていることに驚く。途中から「家康様」も出てくるから、当初の記述における呼び捨ては事実なのであろう。本家・主筋の関係と言えども、石高の大きさの違いで仲間・同輩のようなものだからだろうか。

重大事件の時の実際の現場の動きがわかるところも興味深い。本能寺の変は天正十年六月二日早朝だが、家忠は三日午後六時頃に情報が伝わっていることを記している。この時は明智光秀と織田信澄の謀反と伝わる。四日に明智光秀の謀反とわかり、家康は伊賀から伊勢に出て大浜に上陸したことがわかり、お迎えに行っている。

天正十二年に小牧・長久手の戦いと講和があり、十二月二十五日に越中の佐々成政が浜松に来たことも記されている。有名な佐々成政の「厳冬の立山越え」のことである。

天正十三年十一月十三日に石川数正が上方(豊臣方)に出奔するが、その前に十月十五日に家忠など家臣団に人質を出すような触れがあり、家忠も二十八日に人質として娘を出していることがわかる。石川数正が出奔する前から家臣の間で不穏な情勢があったのあろうか。

家忠は小牧・長久手の戦いや、北条攻め等に参加しているが、戦いのことはあまり出てこない。

天正十三年十一月二十九日に大地震があり、しばらく余震が続く。(これは天正大地震とも称され、日本海の若狭湾から太平洋の三河湾に及ぶ大地震)地震学にこの日記が使われているようだ。

父祖からの三河の地から、関東への移封は大変だったと思うが、日記からは大変さなどはわからない。このことに限らず、全体に感情の動きは記されていない日記だが。

家忠は普請をよく手がけているというか、普請に狩り出されていることがわかる。
また個人的には連歌を嗜んでいたことがわかる。
刀では熨斗目の拵をよく作っていることがわかる。派手な性格だったのであろうか。
下総小見川の領地から江戸に出る時は、船橋から船で行っていたことがわかる。
高野聖から織物などを購入しており、高野聖は行商人であることがわかる。

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