「武士道と日本型能力主義」笠谷和比古 著

興味深く、面白く参考になる知見に富んだ面白い本である。著者は武士道とは何か、そして武士道が江戸時代においてどのように具体的に運用されたかを明らかにする。そして身分制社会の中で工夫された足高の制などによる人材登用制度が日本的な年功序列制度につながり、欧米とは違った日本の経済発展を支えたことを明らかにしている。
そして、その制度を欧米の能力主義に比較して劣っているとして否定するような風潮に警告を発している。

まず「第1章 赤穂事件と武士道」で、赤穂事件時の藩士に①大石内蔵助らが主導した浅野家再興路線グループ(内匠頭ではなく浅野家に忠義)、②堀部安兵衛武庸や奥田のように、武士の一分として主君が非業の最期を遂げたのに、仇の人物がおめおめと生きているのを見過ごすのは世間に顔向けができないと考えるグループ(自己の名誉を守る為の主君への忠義)、③片岡、磯貝らの内匠頭側近のひたすらに主君内匠頭の無念を晴らしたいと考えるグループ(恋人に殉ずるような忠義)がいたとする。

著者は②のグループの持つ忠義を持つ武士は、主君の意向に唯々諾々と恭順していくような武士ではなく、武士個々人の強烈な自我意識、自立の精神を持って、忠義とは阿諛追従ではないとする武士道とする。

[2章 自立の思想としての武士道」で、あの『葉隠』にも諫言の重要性を説いていることを紹介して、事なかれ主義的な恭順を嫌悪する武士道を紹介している。
家康も若いときに、嫡男信康を失うことになった切っ掛けの才気煥発の大賀弥四郎(実は武田のスパイ)を信頼したことへの反省から武骨、無礼でも自己の本心を包み隠さず行動し、自己の命を惜しまないような、誰にでも直言する剛直の士を愛した。

「第3章 武家屋敷駆込慣行」、「4章 主君「押込」の慣行」の事例を紹介する。
そして「5章 日本型組織の源流としての「藩」」で、藩の軍事組織が平時に行政組織に転換することを示す。軍事組織においても、先備(さきそなえ)の旗頭の家老の現場判断が優先され、行政組織においても、実際の活動は中央統轄型ではなく、むしろ出先ごとの現場優先、現場判断型の自律分散的だったことを明らかにする。すなわち日本は現場の意見が実質的に採り上げられ、稟議で上が決裁していく組織であったことを示す。
明治維新においても、藩の下級役人が主導する。

「6章 名君の条件」で徳川吉宗の足高制を能力主義的昇進システムとして紹介し、結果として勘定奉行は軽輩からの登用が多いことを例示している。また御家人株の金銭による売買の事例も紹介して、これも人材登用につながったことを記している。

蜂須賀藩10代の重喜の改革が失敗した例、逆に上杉鷹山の改革成功例を紹介して、権力に対する歯止めを欠いたままに導入される能力主義や自由な人材抜擢は専制政治、恐怖政治に裏腹な関係であることを警告する。

上杉鷹山の政治などは日本型民主主義的だった。

「7章 能力主義のダイナミズム」では寛政の改革で厳格な試験制度も導入され、その結果、川路聖謨、井上清直、栗本鋤雲、勝海舟などの軽輩から幕末外交・政治を担った人材が出たことを立証していく。

「8章 封建制度の日欧比較」でヨーロッパの封建制から絶対主義王政の流れを考察し、君主に独自に任用される委任型官僚が必要になり、役人・行政官はそれぞれの分野における専門家を採用という西洋型能力主義が生まれた背景と説明する。

これに対して日本は封建領主が武士を行政官僚とし、現場で働く中から教育し、登用していく日本型年功序列が生まれ、そして現場をよく知る下級役人の案が稟議の結果採用されるとする。
だから実質は能力主義だったと指摘する。

「9章 日本型組織の過去、現在、未来」「10章 伝統文化とグローバリズム 新しい日本社会を求めて」で、江戸時代商家の人事制度も紹介し、日本型の組織の良さを再認識すべきと結んでいる。

立派な著作である。

「甦る画家たち」 堀晃著

絵が好きな著者が、世の中にはあまり知られていないが、評価に値すると思った画家を取り上げて簡単に紹介している。著者が住んでいる名古屋を中心とした東海地方の画家が多く、44人ほど取り上げている。
私が名前を知っている画家は真野紀太郎、菅野圭介、野口謙蔵、片多徳郎、加賀孝一郎、伊藤久三郎などくらいである。もちろん名前だけをチラッとということで、作風などに詳しいわけではない。

著者は絵が好きなんだなという感じはひしひしと感じる。小品でも著者自身が購入して手元に置いて楽しんでいるのはいいのだが、その割に絵に対する著者自身の評は少なく、著者の感性を発露するよりも、その画家を世に紹介したいという思いの方が強いと感じる。

桐生の大川美術館の大川栄二氏や梅野隆氏という在野の愛好家を師としている人である。

写真は白黒写真で小さく、写真からはその画家のことがわからないのだが、中には観てみたいと思う画家もいる。宮脇晴、横山潤之助、田中保、水島裕、栗田雄などの写真図版が印象に残っている。

現代でも、毎年、美術系の大学などを卒業する人が1万人近くいるのだろう。その中のごく一部が評価され、さらにその中の一部が人気画家になるという世界。
そして生前に人気画家でも、死後は忘れ去られるという世界。逆に生前は知られていなかったが、死後に再評価されるのが、ごく稀に存在する世界。この分野に著者がいるわけである。こういう顕彰・再評価は大事である。

ティモシー・リダウト、ベンジャミン・フリス デュオ・リサイタル

ティモシー・リダウトとは1995年生まれという若手のヴィオラ奏者である。ベンジャミン・フリスはピアノ演奏家で名高い。昨日、トリフォニーホールの小ホールで演奏会があり、妻と出向く。

音楽に造詣の深い人は、誰々の演奏として、前売り券を購入して出向くのだろうが、私は心地よい音の世界に浸りたいだけだから、直前になっての割引き券の案内で出向くことが多い。この演奏会もそのような案内で知る。加えてヴィオラという楽器である。だから、この演奏会でも客の入りは8割くらいだったと思う。
でも客の入りと演奏の質は比例しない。今回は非常に心地の良い演奏会であったと妻と喜ぶ。ピアノも良く、ヴィオラが融け合うような、一方で競い合うような良い演奏だ。

演奏された曲は「ベートーヴェン/ホルン・ソナタ Op.17」、「シューベルト/アルペジオーネ・ソナタ イ短調 D821」、「シューマン/アダージョとアレグロ Op.70」、「ヴュータン/ヴィオラとピアノのためのソナタ Op.36」である。私の知らない曲ばかりである。

ヴィオラはオーケストラの一部でしか聴いたことがなかったが、ヴァイオリンのような高音の天使のような美しい音色や、チェロやベースのような腹に響くような迫力のある低音とも違って、人間の男性の声のような感じの親しみやすい音域であった。人間的な優しい音色である。チェロとヴァイオリンの間の音域なのだろう。

演奏された中の、どの曲だかは記憶に無いが、ヴィオラが人がしゃべっているかのように演奏し、それにピアノが応える。ピアノが強く叩き出すと、ヴィオラも強く弾く、共に歌い、共にしゃべるようだ。
またヴィオラが自然の風のようにメロディを奏でると、ピアノが風に吹かれて何かが音を立てるような感じで呼応する。

ヴィオラはヴァイオリンより大きく、弓も長いと感じる。弓を端から端までの全部を使って、同じ音を長く奏でたり、弓の一部で弾むように引いたり、様々な音色が生まれてくる。

ピアノも響く良い音であった。時にヴィオラの演奏を引き立てたり、自分の方が主役となってヴィオラをリードしたり、自在の演奏であった。

2人の演奏者も共に楽しかったのだろう。アンコールは3曲も奏でられた。曲目はわからない。演奏者が英語で曲名を言うが、ブラームス、バッハという人名しか理解できなかったが、曲名などは私にとってはどうでもいい。
音楽とは音を楽しむものだ。



 

「大江戸武士の作法」小和田哲男監修

時代劇に出てくる武士ではなく、本当の武士の姿を図解で示すという本である。図が多く、内容も軽いものかと思っていたが、読んでみるとそれなりに面白く、参考になる。
大きく次の5章に分かれている。「1.暮らしの作法」「2.武術の作法」「3.行事の作法」「4.仕事の作法」「5.軍事・警備の作法」である。

「1.暮らしの作法」では、年貢米の支給は春と夏に25%ずつ、秋に50%という三季制である。蔵米取の武士は米俵で受け取っても運搬や保管場所にも困る。だから浅草の蔵前で支払手形を持参した武士が受け取るのではなく、それを代行する札差に委託して、武士は札差から現金を受け取る方式となる。前借りもあり、それが札差商人を大きくさせた。
また武士のお供などの最低の給与は三両一人扶持で、1日玄米5合分と別に年三両の現金支給であった。サンピン侍の蔑称はここからくる。

武士の格の違いでの家屋、門構え、お供の数などが違うが、それを図示してある。今の時代劇は武士は供を連れていないが、当時はこんなことはありえないのだ。
大名の江戸屋敷は塀と長屋が一体で、長屋に単身赴任の下級武士が暮らしていたのだが、その中の構造なども図示してある。単身の武士や町人が多かった江戸で発達した棒手振という商売や屋台の様子もよくわかる。
武士や町人、その夫人の衣服、髪形、食事の様子や、武士の旅行の衣服もわかる。

「2.武術の作法」では、それぞれの武術を簡単に紹介している。なお幕末には鎧の着方もわからなくなっていたようだ。

「3.行事の作法」では、元日の朝の行事から各節句の祝い方や、一番大事な八朔の行事などもわかりやすい。

「4.仕事の作法」では俗に茶坊主といわれている者も御用部屋坊主、同朋頭、肝煎坊主などに分かれていることを知る。勘定奉行が激務で、有能な者が任命されていたこともわかる。
火付盗賊改は治安が悪化した時代に、重大犯罪のみを扱う特命捜査隊のような位置づけで、武士も検挙することができ、取り調べも非常に厳しかったことが書かれている。
江戸の消防衣装、消防道具も図示している。

「5.軍事・警備の作法」では、幕府の大番組、新番、小十人組の旗指物が図示されている。上方の在番も任務だが、道中や上方での費用もバカにならず、厭がるものが江戸時代後期には多くなったようだ。

御庭番(将軍直属)、京都の禁裏付、仙洞付、八王子千人同心、鷹匠、奥医師、奥絵師などの役割やその姿も掲載されている。

「印象派への旅 海運王の夢」展

スコットランドのグラスゴーで海運業、船舶の売買で財をなしたウィリアム・バレルのコレクションである。9000点以上のコレクションがあるそうだが、この展覧会では73点ほどの陳列である。そもそもバレルは寄贈に当たって国外で陳列することは許さなかったそうだが、現在は所蔵の美術館の改装工事中で、特別とのことである。数が少ないから、観てまわるのに時間もかからなかった。

私が知っている画家で展観されているのはゴッホ、ルノアール、セザンヌ、シスレー、ミレー、クールベ、ドガ、マネ、コローなどである。それらの有名な画家よりもリボー、マリス、ポンヴァン、ラトゥール、ブーダン、シダネルなど初めて知る画家の作品が多い。知らない画家には、蒐集家バレルの出身地のスコットランドの画家もいるようだ。

水彩でグワッシュ(不透明な水彩画であり、塗り重ねも出来る)という作品多く、これらは油彩と違いがないように見える。解説にもあったが、水彩で外に出て早く画くということは、印象派の作画スタイルに似ており、これら水彩画家も印象派の一つの魁と思える。

展覧会では「1章 身の回りの情景」(この中を「室内の情景」「静物」に分けている)、「2章 戸外に目を向けて」(この中を「街中で」「郊外へ」に分けている)、「3章 川から港、そして外洋へ」(ここは「川辺の風景」「外洋への旅」に分かれる)に分けて展観している。小品も多い。

1章の「室内の情景」の中には、マリスやリボーという画家の室内の人物作品があるが、これらはレンブラントなどのオランダの画家のような光の陰翳が強い絵である。オランダの画家の影響かと思ったが、帰宅してから、オランダの画家の影響というよりは、当時の室内の照明事情のもとで画けば、こういうふうになるのかとも思いついた。

2章では、クロホールの「二輪馬車」は水彩、グワッシュだが、細密な画で驚きを感じる。またシダネルの「雪」という作品もが印象に残っている。1901年の作品だが、日本の浮世絵の描く雪よりもふっくらと湿り気があり、独特の世界である。「月明かりの入り江」という絵も展観されているが、夜景であり、浮世絵にヒントを得ていると感じる。これまた感じがよく、好きな絵である。

海運王ということから3章の「川から港、そして外洋へ」で、水辺の風景画や船の画を並べているが、シダネルの「月明かりの入り江」もそうだが、帆船の絵など印象に残る絵がある。水辺の景色だが、明るい絵は少なく感じた。帰宅してから思ったのはスコットランドの天候はこういう空が多いのではないかということだ。

知名度の高い画家の作品のコメントは次の通りである。

ゴッホの作品はバレルがコレクションにあたって信頼していた画商リードを描いた肖像画である。いつものゴッホの作品よりもおとなしいというか整った感じであるが、筆致はやはりゴッホであり、記憶に残る作品だ。

セザンヌは色も独特なのだと改めて思う。明るい色も魅力的であり、セザンヌの絵だとすぐわかる。「倒れた果物かご」「エトワール山稜とピロン・デュ・ロワ峰」の2枚が展示されていた。

同様にルノアールも風景を画いても静物を描いても、ルノアールだとわかる筆致である。「画家の庭」「静物-コーヒーカップとミカン」が展示されていた。

ミレーのデッサンが2枚展示されていたが、当たり前のことだが、デッサンの段階からミレーの描く農民の姿であり、なるほどと思うと同時に魅力的なデッサンであった。

この展覧会全体の目玉はドガの踊り子を描いた「リハーサル」であるが、ドガは”動き”を画こうと思った画家なのだと改めて感じる。また「木につながれた馬」という作品もあった。


「竹内栖鳳 芸苑余話」 平野重光 著

竹内栖鳳は「東の大観、西の栖鳳」と称された巨匠である。先年、国立近代美術館で展覧会があり、その時にライオンを描いた屏風などの大作で、かつ西洋画的な屏風などを拝見し、「なるほど、凄いものだな」と感じた記憶がある。時に見かける小品とは格段の差があった。

著者は竹内栖鳳に関する本を共著も含めて2冊上梓しているようだが、この本は執筆の過程で集めた資料や、その後に入手した資料から、体系的では無いが、竹内栖鳳の人となりを浮かび上がらせているものをまとめている。

栖鳳の粉本主義(お手本をなぞる)ではない、写生へのこだわりについて次のようなエピソードを紹介している。船とカモメを絵にしようとした時に、カモメの姿態描写に納得がいかなかった栖鳳は、伊勢に出向いたがカモメは存在せず、そこで敦賀に出向いて、子ども達の捕獲方法を学んで生け捕ることができた。餌を食べさせることにもようやく成功して、今度は京都の自宅に輸送して飼育する。京都の家では井戸水をモーターで昼夜間断なく流して3、4年生かして観察・写生する。その間、水道水を盗水だと誤解を受けたりする。しかしいつでも写生できるとなると、後回しになり、構想の絵は完成しなかったようだ。
展覧会には「雨」という作品を出すが、展覧会の審査に不満を持つ男から画に墨を塗られてしまうという後日談もある。

東本願寺の襖絵に画いた雀二羽が剥ぎ取られるという事件もあった。当時から栖鳳の絵は高価で、「雀一羽イクラ」という世界であった。
東本願寺では大谷光演(彰如上人、俳号:句佛)氏と親しく、大門天井に天女を画く構想もあり、進行していた。東京から「みどり」というモデルを読んでデッサンをしていくが、完成間近にモデルが急死してしまう。
次のモデルの「文枝」は裸になる前に躊躇してしまう。その時の風情を画いたのが「絵になる最初」という作品である。
天井画の方は未完で下絵の一部が残っている。

竹内栖鳳は京都二条城の裏手の繁昌していた料理屋「亀政」の息子である。この家は御池通油小路に移転する。姉のコトが代わって継いでくれて画業に専念することができた。この生家の近くで栖鳳も耕漁荘という画室を設けて住んでいた。その後栖鳳は嵯峨に3000坪の敷地を購入して霞中庵という別荘を建設する。建物、造作、庭に凝ったものだった。その後、東山高台寺に1300坪あまりの敷地で居宅と画室を建設し「霞中山房」と称する。完成後に肺炎にかかり、湯河原に湯治に出向き、結局、そこに「山桃庵」を建てる。

当初は幸野楳嶺から棲鳳という雅号をもらい、名乗っていたが、洋行の途中から栖鳳となる。 棲は俗字だからとして書道の杉山三郊氏から栖鳳への変更を進められていたようだ。それ以前にも篆刻師が俗字など彫るのは嫌だと勝手に栖鳳と彫ったこともあったようだ。だから時々、この頃の作品に栖鳳印が押されていることがある。

弟子の橋本関雪から逆に破門されたことがある。関東大震災時の栖鳳の寄付金が低かったことなどへの反感や審査体制などがあったようだ。

魯山人との交流もある。魯山人は篆刻を学び、近江長浜の柴田源七が贔屓にする。柴田家の長男の嫁が竹内栖鳳の長女。それで款印の篆刻を申し出て、栖鳳に認められる。栖鳳が他の画家を紹介して世に出て行く。

歌舞伎の中村鴈治郎とも親交がある話とか、岡倉天心から東京に移住を進められたことなどがあるという話も記載されている。

「最期の絵 絶筆をめぐる旅」 窪島誠一郎 著

画家を20人取り上げ、その絶筆=最期に発表したとされる絵画を紹介しながら、その画家についてのエピソードを記している本である。
この中では野田英夫の「野尻の花」は信濃デッサン館で観て、実にいい絵だなと印象に残っている。この本で野田英夫のアメリカ人の妻は野田の最期を見届けずにアメリカに帰国するが、共産党員であって、野田の死も何か組織が関係のありそうな説もあることを知る。

西郷孤月の「台湾風景図」も、どこかの展覧会で拝見したような記憶があるが、松本市美術館が所蔵しているから、私が観たと記憶しているのは別の絵かもしれない。若い時は大観、観山、春草らと四天王と呼ばれていたことを知る。岡倉天心に殉じて中央画壇から去り、橋本雅邦の娘との結婚が破綻して、不遇な生活を送り、38歳で逝去する。台湾風景を画いているが、寂しい感じを与える絵である。

鴨居玲の「自画像」も観た記憶があるが、自画像を多く描いているから別のものかもしれない。うつろが表情が鮮やかな赤(スカーレット)の背景、橙色(バーミリオン)の中に浮かび上がっている。クライけれど好きな画家である。

佐藤哲三の「帰路」は有名な「みぞれ」と同様な蒲原平野の光景だが、これも記憶がある。東京駅の美術館だったかもしれない。この作者の絵にも心が惹かれる。

靉光の「(梢のある)自画像」も鴨居と同様にいくつかある自画像と記憶がかぶっているかもしれないが、印象に残っている。少し顎を上に出して、昂然としているが実に寂しい感じが出ていてたまらない。出征前の展覧会に出品されたもののようだ。

伊澤洋の「風景(道)」は無言館で観ているはずだが、その時の記憶は他の戦没学生の絵と一緒に「もっと画きたかったろうに」という思いに総括されてしまっている。

はじめて知る画家も掲載されている。伊澤洋もそうだが、渡辺學(銚子で画いた人)、宮芳平(森鴎外の小説「天寵」のモデルとのこと)などだ。

古賀春江が晩年に精神を病んでいたことを知る。岸田劉生も遊蕩、酒浸りで歿している。全盛期の絵はピューリタン風な精神も感じる荘厳な絵であり、日本洋画の最高峰と思っているが、その差に驚く。

香月泰男はシベリアシリーズの重い絵で知られていて、私も好きだが、流行作家でもあり、納税額が1億円を突破するような年もあったそうだ。だが常にシベリアで亡くなった戦友のことが脳裏から離れなかったようだ。

鶴岡政男も「重い手」が有名で、これは名作と思う。この本によると、晩年は女好きで、他の入院患者が眉をひそめるような奇行をしていたようだ。

「江戸の外交戦略」 大石学 著

標記のテーマに即して、わかりやすくまとめられている本である。章ごとの終わりに参考文献が明記されていているのもありがたい。
全10章は「1.鎖国前史ー東アジア世界の変動と第一次グローバリゼーション」「2.豊臣秀吉のグローバリゼーション対応」「3.戦後処理と鎖国の道」「4.鎖国体制-「四つの口」と琉球・蝦夷」「5.通信使外交の展開」「6.通信使外交の歴史的位置」「7.近世日本の朝鮮人」「8.将軍吉宗と国際情報」「9.第二次グローバリゼーション-合理主義・客観主義の浸透」「10.洋学の浸透」である。

10章の内、5.6.7章の3章を朝鮮通信使の記述にあてられていたり、秀吉の朝鮮出兵のことに詳しいが、それは著者が韓国との歴史共通教材づくりのプロジェクトに参加されていた為である。朝鮮出兵時の具体的進路や抵抗の様子、江戸初期に国交回復に資した対馬藩の国書改竄までしての苦労、朝鮮からの通信使は日本に侮られないように優秀な人材をあてたこと、朝鮮から通信使が来日しても、日本側から朝鮮に出向かなかったのは、秀吉の朝鮮侵攻時に、道が判明していたから進軍されたとの思いから、朝鮮側が警戒して断っていたとのことなどを知る。

この後、明が衰えて清になると、朝鮮に朝鮮中華主義が生まれる。また日本では鎖国の過程で、日本型華夷意識が生まれ、これが攘夷思想につながる。

キリシタン禁教の歴史もわかる。秀吉のキリシタン禁止は天正15年に大村純忠が長崎をイエズス会に寄付していたことに衝撃を受けたためだが、南蛮貿易は積極的に推進。慶長5年にスペイン船サンフェリッペ号が土佐浦戸に漂着した際に船員がスペインはキリスト教を布教したのちに日本を植民地化しようとしていると述べたために京都、大坂で宣教師26名を捕縛、長崎で処刑。
この本では当時のキリスト教信者数は天正10年に約15万人、慶長5年約30万人、慶長10年には約70万人とある。拙著の「正誤表」で直した数値よりも多いから原典にあたらないといけない。

「四つの口」とはオランダ、中国の長崎、朝鮮の対馬、琉球の薩摩、蝦夷の松前である。

朱印船貿易と糸割賦制のことも理解できる。糸割賦制とは、当時の最大の交易品の中国産生糸を、ポルトガル商人が独占しており、価格をつり上げるのをふせぐために、長崎で糸割賦制を創設。京都、堺、長崎の商人が仲間を結成し、春に価格を決定し、その価格で一括購入して仲間に分配する制度で、後に江戸と大坂の商人が加わる。

なお「鎖国」という言葉は元禄3年にオランダ商館のケンペルが著書『日本誌』を記し、それを訳した通詞の志筑忠雄が「鎖国論」と訳したことからはじまる。

第8章では、吉宗は実に細かいことまでオランダ商館長に質問していることが記されている。これが洋書解禁やオランダ医学の導入などにつながる。

19世紀に欧米列強は産業革命を推進し、工業生産のための原料入手や製品の販売先をもとめ、世界各地に進出。この動きがアヘン戦争や日本の開国につながる。

「戦争の日本史17 関ヶ原合戦と大坂の陣」笠谷和比古 著

視点が斬新で、かつ興味深く、また著者の頭脳が整理されていることを証明するように読みやすい本である。
著者の言わんとするところを私なりに整理すると次の通りである。
①関ヶ原の前に、豊臣政権内で石田三成方と加藤・福島など七将の間で、朝鮮の陣に起因する対立がある。これで三成襲撃事件が起きる。なお三成は家康屋敷ではなく、自分の伏見の屋敷に逃げる。佐和山までは護衛を受ける。この後に家康暗殺計画が発覚して加賀前田家の家康への屈服などが起きる。
②豊臣方の合意として上杉討伐に家康や諸将が出向く。
③この間に石田三成・大谷吉継の家康討伐計画が起きる。
④小山会議は①の段階の情報で開かれ、三成討伐が決まる。あくまで反三成の合意。
⑤大坂で石田方は秀頼、毛利輝元なども巻き込んだ反家康同盟を結成するのに成功する。
⑥ここで大坂にいる諸将の妻子を人質とする動きが出てガラシャ事件が起き、この後は強制はしない。

⑦小山会議は反石田でまとまっただけであり、その後石田方が秀頼も巻き込んだ反徳川にしたので、家康は江戸で豊臣七将の動向を確認したり、各地の武将に手紙を書いての同盟工作や上杉、佐竹対策をする。
⑧秀忠軍の上田攻略は小山会議で決まったこと。攻略できなかったのは真田が巧みに戦ったから。
⑨小山会議での山内一豊の自城提供の申し出で、不安定な状況下での家康の東海道進軍が容易になったのは大きい。
⑩名古屋清洲で諸将が家康到着が遅いと苛ついていた時に、家康使者村越茂助の口上によって日和見を非難されたと思い岐阜城攻略に,向かい、落城させる。
⑪この報を受けて、家康は9/1に江戸城を出て11日に清洲到着。石田方はこの早さに驚く。
⑫家康は決戦が長くなり、毛利輝元が秀頼を押し立てて出馬した時の東軍諸将の動揺、裏切りを恐れた。だから徳川主力の秀忠軍を待たずに決戦に挑む。

⑬毛利・吉川軍が南宮山、小早川軍が松尾山に陣取る中を家康が桃配山に陣を進め、西軍の包囲網の中にまで軍を進めたのは、彼等の裏切りを確信していたからである。
⑭開戦するが、三成軍は大坂城から大砲(石火矢)数門を運び、これで応戦したので戦闘は硬直状態。他の西軍諸将も強く、一進一退となる。
⑮小早川軍には家康からも黒田からも目付が派遣されていたが、小早川の先鋒平岡頼勝と稲葉正成が動かない。一方、南宮山の毛利は先鋒の吉川が抑える。当時、先鋒の意向は非常に大きい。
⑯家康は焦り、小早川に鉄炮を放つ。やっと手はず通りとなり、勝利する。

2段階論(反石田だけでまとまる段階から、西軍に対峙する段階)と、秀忠軍の想定通りの行軍、家康が江戸から動かなかった理由、関ヶ原の戦い時に確信していた裏切り想定がなかなか裏切らなくて家康が爪を噛んだことなど新鮮である。

関ヶ原後に、家康は東軍諸将に恩賞を出すが、領地宛行状を発行して領地を定めていない。これは鎌倉幕府以来の東国・西国の二元統治体制が生きていて、西国は豊臣秀頼の管轄という意識が生きていたからである。
この意識は征夷大将軍になっても存在し、徳川家、豊臣家に皇室も巻き込んでの閨閥で対処することも指向したが、結局、大坂の陣で豊臣家を滅ぼすに至る。

二元統治体制だったとの証明は、①家康としての領地宛行状の未発行の件、②秀頼の領国は摂津・河内・和泉だけだが、豊臣家の旗本というべき武将の知行地は伊勢など他の西国に存在していたこと、③江戸城普請は天下普請だが秀頼には役が無く、普請に豊臣奉行人が介在していることなどで理解できる。

大坂冬の陣の後に堀の埋め立てを行うが、騙したのではなく、当初の条件に二の丸、三の丸の堀も埋めるとあった。ただし、二の丸の堀は豊臣方が破却するという条件だったのを徳川方が実施したので抗議された。

大坂夏の陣では籠城できないから野戦になったが、大坂方の武将は死を覚悟して奮戦するも、数の力で消耗して敗戦。

大坂の役後も、太閤検地的な中央による一元管理は行わず、日本全体を統治する体制が構築できずに、各地方(領国)ごとに大名統治に任せた。大名領国への内政干渉的施策はとらない。
また、豊臣秀吉は大名家臣にも秀吉自ら領地をあてがう(例えば直江山城守)ことをしたが、家康はしていないのも上記の根拠である。