「戦国武将を育てた禅僧たち」小和田哲男 著

「なるほど」と思った書物である。この本によると、禅の教えは儒学と結びついていて、儒学は人間の道、政治のあり方などを教示してくれる。すなわち禅で戦国武将は統治者としての心構え、思想を学んだということが記されている。
禅門で学ぶ学問には兵法の書も含まれている。また易学とも強い結びつきがあり、この結果として禅僧から、戦国武将の軍師と呼ばれる者を輩出したことが記されている。戦争には運も大切だ。
また禅宗に限らないが、当時の宗教は全国に末寺を有して、ネットワークを持っていた。そういうこともあり、戦国武将間の連絡・外交に禅僧が活躍したことが理解できる。外交官でもあったわけだ。

本は次の7章からなる。「1.武将にとって禅とは何だったか」、「2.子弟の教育機関だった禅寺」、「3.武将幼少時の師となった禅僧」、「4.戦国の合戦と禅僧」、「5.易者でもあった禅僧」、「6.信長「天下布武」の陰に二人の禅僧」、「7.政治顧問に迎えられた禅僧」の章である。

「1.武将にとって禅とは何だったか」では武将は禅僧との問答によって精神を鍛える、すなわち精神的な徳を涵養することだったと著者は説く。徳とは具体的には武士としての行儀、分別、人の上に立った時の礼儀、日常生活の規律と説明している。
北条早雲こと伊勢新九郎盛時は建仁寺で修行しており、さらに大徳寺で修行し、大徳寺特有の「宗」の字のついた宗端を名乗る。同時期に大徳寺にいた一休宗純は僧が軍書などを読んでいる風潮を批判している。早雲が定めたとされる21カ条に「第一、仏神を信じ申すべき事」とあり、早雲は当時としては人道的な政治”慈悲の政道”を行ったことで知られている。すなわち、これは儒学的知識でもある。

徳川家康の師とも言える藤原惺窩も元は禅僧である。この弟子が林羅山。また朝倉孝景、結城政勝のように家訓を残している武将は、その家訓の内容に禅、儒教的な教えを織り込んでいることが理解できる。武田信繁、大友宗麟も禅の影響を受けていた。

茶禅一味という表現もあるが戦国武将に流行した茶道も禅の精神を持っていた。

また今川義元は栴岳承芳と名乗り、禅寺で修行していた。この軍師ともされる太原崇孚こと雪斎も禅僧であり、徳川家康は今川時代に彼に学ぶ。

「2.子弟の教育機関だった禅寺」では武将の子の一人は仏門に入れるのが当時の習いでもあった。「一子出家すれば九族天に生ず」という言い伝えもあるが、教育機関でもあった。時にその中から還俗して武将に戻る人物も足利義教、今川義元などのように出る。
「3.武将幼少時の師となった禅僧」として武田信玄は岐秀元伯から『碧巌録』を学ぶ。その後に快川紹喜が師となる。上杉謙信は天室光育、伊達政宗は虎哉宗乙が師で『十八史略』を学び、黒の軍団、独眼竜のヒントを得た。

「4.戦国の合戦と禅僧」では陣僧として多くの僧が出兵し、兵の最期を祈り、屍体処理にあたる。また従軍医でもある。また禅門のネットワークを使った使僧、外交僧の安国寺恵瓊は有名である。

「5.易者でもあった禅僧」では禅宗が密教化していき、易学に近づいていくことが述べられる。その易学の教育研究センターが足利学校である。学ぶ者が3500人~3000人もいた。禅宗の学校だが、参禅はなく、漢籍中心の講義を受ける。そこでは易学が重要な課目であった。戦国武将は足利学校で学んだ者を軍師として招くことを盛んに行う。徳川家康は閑室元桔(足利学校第九世庠主)に関ヶ原の戦いの日時などを占わせている。金地院崇伝も活躍した。朱印状の発行と禁教令のような法案の作成にあたる。

「6.信長「天下布武」の陰に二人の禅僧」の章は神も仏も信じないように思われている信長が、策彦周良と沢彦宗恩を活用して、前者は天主の命名、後者は天下布武の言葉を選んだとの説を紹介している。

「7.政治顧問に迎えられた禅僧」では毛利元就の病気を治した曲直瀬道三のことに触れ、禅僧が医学的知識があったことを述べている。

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