「落日の豊臣政権」 河内将芳 著

副題に「秀吉の憂鬱、不穏な京都」とあるが、文禄年中の京都を中心とする地方の世情を記していて、なるほどと思うところがある。
秀吉の時代は 「慶長見聞集」に「弥勒の世」と記されたり、「大かうさまくんきのうち(太閤様軍記のうち)」に「太閤秀吉公御出生よりのこのかた、日本国々に金銀山野に湧き出て」とあるように、豪華絢爛な桃山時代と思われているが、それとは違った事実を教えてくれる。

当時の日記(「孝亮宿禰記」「言経卿日記」「舜旧記」「義演准后日記」「16・7世紀イエズス会日本報告集」「多聞院日記」「駒井日記」など)や「当代記」や「慶長見聞集」を駆使して具体的に記している。これらが、この時代の基礎史料ということも理解できた。

文禄は、天正20年(1592)に改元され、文禄5年(1596)に京都に大地震がおこり、伏見城が崩壊するなどした為に、慶長に改元されるように短い時代である。

天正10年代の10年余で、京都の町造りが本格化し、8千~1万の戸数が、3万戸になって人口10万人以上に拡大する。その京都の聚楽第が建ち、そこには関白秀次がいて、秀吉は伏見にいる時代である。

華やかな時代の象徴として、金銀を大名、公家に配る秀吉の事績も存在するが、これは秀吉の資質としての気前の良さと同時に貨幣政策でもあったのかと記している。
そして「ならかし」という言葉が出る。奈良借と書くが奈良町民に対して南京奉行が金を貸しつけ、その利息を取ることであり、奈良の町人は高利に苦しんだことが記されている。京都、大坂、郡山などの城下町を整備する為に、これら地には優遇策も出されるが、奈良の町などには厳しかったことがわかる。

京では秀次家臣間で、喧嘩の刃傷事件が起きる。秀次周辺は淀殿の懐妊に神経を尖らせていた。このような事件や辻斬り、強盗も生じる。文禄の役という対外戦争からの忌避や、伏見城などの普請での荒くれ男の集まりや、関白秀次と太閤の対立などによる世情不安による。関白が千人切りをしているとの噂もたつ。盗賊・石川五右衛門の事件などは武家の奉公人の犯罪であった。都市の治安は悪化していた。

当時、京では陰陽師、声聞師が多くいたが、これらの人を捕まえて、豊後や尾張の荒地の開墾などに送り込む。これは対外戦争で男が出ている時に女房がこのような者を家に上げるのを防ぐためでもあった。
宇喜多の豪姫が産後におかしくなり、狐が憑いたとされる。狐は出産や死に結び附けられており、声聞師払いもこの一環で実施される。

淀殿に世継ぎが生まれ、文禄4年に秀次に謀反の疑いが着せられ、秀次が切腹させられる。秀次の妻妾や子が三条河原で殺され、聚楽第も取り壊される。ただし、秀次家臣の近臣は別だが他の家臣は他大名などに取り立てられていることも記されている。

文禄5年に降砂があり、毛のようなものが降った。(浅間山噴火の影響か)
そして文禄5年(1596)閏7月の深夜に京都に大地震が起き、伏見城崩壊するなどの被害が出る。伏見城は再建されるが、苛酷な労働で怨嗟の声も満る。なお大地震は天正13年(1585)にも中部地方から近畿東部にかけても発生していた。

文禄の役という対外戦争の不満、逃亡兵による治安の悪化、普請工事による荒くれ男による治安の悪化、天変地異、秀吉の後継問題による秀次事件、京都、大坂、郡山重視で奈良などの町衆の不満などが「落日の豊臣政権」の現象である。

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