「新聞記者 司馬遼太郎」(産経新聞社)

司馬遼太郎は産経新聞社に勤めたことがあり、その時の逸話を集めた本である。司馬遼太郎こと福田定一は、22歳で復員し、大阪の新世界新聞に入社。それから京都の新日本新聞社に入るがつぶれ、昭和23年6月に産経新聞の京都支局に入る。そこから地方部、文化部を経て、直木賞を受賞後の昭和36年に出版局次長を最後に退職して作家活動に専念している。38、9歳の独立となる。

京都支局では宗教(寺回り)部門担当になる。西本願寺に記者クラブがあり、今の国宝の飛雲閣で昼寝をしていたとかの逸話が残る。それから大学部門も受け持つ。自然科学系の学者との付き合いが多かったようだ。

昭和25年の金閣寺炎上事件の時に、当直であり、鹿苑寺の庫裡で犯人と村上住職とのやりとりをスクープしている。
また住友本社総理事で歌人でもあった川田順68歳が40歳の元大学教授夫人との恋愛事件があった時に川田の和歌から「老いらくの恋」という言葉を抜き出し、それを見出しに使い、流行語になる。

大阪の文化部に勤務の時は梅田画廊に出入りし、画家の三岸節子を評価したりしている。

ここで書かれたような人柄だったのだと思うが、悪いことは一切書いていない。文章は上手で座談もうまい新聞記者の姿である。

昭和31年に第八回講談倶楽部賞を『ペルシャの幻術師』で受賞し、そこから司馬遼太郎の名前を使う。寺の住職でもあった寺内大吉から小説を書くことを薦められたようだ。

直木賞を獲った『梟の城』は忍者が主人公だが、新聞記者のように描いていると解説している。それは、新聞記者は無名性と新聞の公共性を武器に権力や権威の中枢に容易に接近するが、忍者は忍びの術で天下人の実態に接近して、実情を知るというか暴くという点が共通すると説く。

また司馬は、根っからジャーナリスト的な目を持っていたと述べる。ベトナム停戦協定締結後にベトナムに出向くが、そこで『人間の集団について』を書く。戦争は補給が決定するが、ベトナムは補給を後ろの超大国が行うことで、終戦の道が見えない戦争だったと書く。

なお産経の近藤紘一(『サイゴンから来た妻と娘』の著者)を高く評価し、「新聞記者の持つちっぽけな競争心、功名心やおぞましい雷同性を少ししか持たなかった」と弔辞で述べているそうである。

台湾には何度か出向き、国家には適正サイズがあり、中国がチベットや台湾を一緒にコントロールする愚を書く。今の帝国主義的中国を予言していたことになる。

文庫の末尾に解説が付くが、そこで産経新聞論説委員の皿木氏が次のように記しているのが面白い。『坂の上の雲』における日本海海戦の時に沖の島の宗像大社の使夫として目撃した人の談話を取り入れているが、こういう点が新聞記者的と評する。
私はこの解説に同感する。私が『坂の上の雲』で感動した箇所は、バルティック艦隊を発見した沖縄の漁師が、近くの無線所がある島まで一生懸命に漕ぐ姿である。こういうエピソードの挿入が上手だと確かに思う。

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 2

なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー)

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック