「享徳の乱」 峰岸純夫 著

副題に「中世東国の「三十年戦争」」とあるように、応仁の乱に先んじて東国で生じた大乱のことを記している。応仁の乱でも同じだが、乱の経緯、個々の戦闘などはわかりにくい。同名字の者(一族)が敵味方になって戦い、時に裏切ったりするから人名をたどるだけでも紛らわしい。

私は相川司氏の本で教えられたのだが、室町時代は京都中心の政権(室町幕府)とは別に関東十カ国(関八州に甲斐・伊豆)の政権があったことの歴史認識を基礎に持たないといけない。
幕府の「将軍→管領(細川、斯波、畠山が三管領)」と関東の「鎌倉公方→関東管領上杉)があったことから認識すべきである。
この本では「兄の国」(足利尊氏からの室町幕府)と「弟の国」(足利直義以来の鎌倉公方)に分けて、兄は弟をコントロールしたがり(関東管領上杉氏を通じて)、弟は兄のくびきからのがれようとする動きを基調にする。(義満の時代に土岐頼康の反乱の時に鎌倉公方の氏満が表向きは幕府支援として兵を出そうとしたが上杉憲春が諌死)、大内義弘の応永の乱の時に鎌倉公方の満兼は武蔵府中に出陣して上洛しようとしたが、上杉憲定が抑える)

享徳の乱も、享徳3年に鎌倉公方足利成氏が上杉憲忠を自宅に招いて殺すという対立に、京都の幕府(義政→細川勝元)が関東管領側について起こした紛争から始まる。幕府は新たに関東公方を派遣したのだ(これが伊豆の堀越公方)。
利根川の埼玉県南岸の五十子(いかっこ)に関東管領側が陣を構え、対岸には鎌倉から古河に行った古河公方側が陣を張り、戦ったわけである。だから利根川から南は関東管領側、北は古河公方側というのが基本となる。

その後、関東管領側の家宰・長尾家の内紛で長尾景春と扇谷上杉家の家宰・太田道灌などの戦いがあり、さらに太田道灌が主君の扇谷上杉の当主に謀殺されるなどして戦いは30年近くに及ぶ。

この間、京都では義政→細川勝元ラインに対抗する山名宗全が、享徳の乱が収拾がつかないことや将軍継嗣問題などで対立して応仁の乱が生じたというわけである。関東の享徳の乱が長引いたことが応仁の乱の契機にもなっている。

この本で著者は、戦国大名の前に戦国領主が、この乱で生まれたと書くが新鮮で面白い。
当時、関東各地には鎌倉時代以来の本貫の地(家が発祥した地で、西国に領地を得た御家人も、本貫の地を所領として持っていた)を代官を通して治めていたが、関東の争乱の過程で、この地の領主に簒奪されていった。関東各地の寺社領も浸食される。このように一帯の土地を奪ったのが戦国領主である。
ただし、関東は戦国領主化した者の上部に古河公方や関東管領という過去の政治体制が残り、関東それ自体のなかから突出した戦国大名は生まれなかった。
越後長尾家(上杉)、武田、北条が三つ巴になって争った理由である。

そして、その北条に関することだが、享徳の乱終結に際して、本来ならば無くす必要のある堀越公方(伊豆)を妥協の産物で伊豆守護として古河公方の管轄地域とは別に残したことで、関東の一角伊豆が、駿河からの伊勢宗瑞(北条早雲)に蚕食され、それが後北条氏の関東制圧につながったとの指摘はなるほどと思う(この前に大地震があり、早雲が被災者に厚く支援して、味方につける)。

また鎌倉公方が関東管領を殺したり、扇谷上杉が太田道灌を殺したりという主君が家臣を殺す「上克上」が、「下克上」の前にあったという指摘もなるほどと思う。


ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 2

なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー)

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック