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zoom RSS 「暴かれた伊達政宗「幕府転覆計画」」 大泉光一 著

<<   作成日時 : 2019/01/07 08:11   >>

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ヴァティカン機密文書館にある史料を著者は原文の古典ロマンス語で読み解き、支倉常長の遣欧使節団の本来の目的は、伊達政宗が日本国内にいるキリスト教徒の名目での武力としての活用とスペインの武力を使って徳川幕府を転覆するために働きかけを行ったということが明らかになったと結論づけている。以前に著者の『伊達政宗の密使』という本を読んだことがあり、そこでも同様なことを示唆されていた。
https://mirakudokuraku.at.webry.info/201112/article_6.html

説得力があり、著者の出した結論で間違いがないと思う。なお、この説は戦前の史学者箕作元八博士がヴァティカン機密文書館史料のラテン語による『日本のキリスト教徒の連署状』などを元に、明治34年にドイツの歴史学専門誌に論文を発表し、その内容は日本の学術誌『史学界』に発表されていた。ところが明治35年に村上直次郎博士が慶長遣欧使節の研究をする中で抹殺され、使節派遣の目的は、宣教師の派遣要請とメキシコとの通商開始とされて、それが現在までの通説になっているとのことだ。

当時、日本国内ではイエズス会(ポルトガル国王保護)とフランシスコ会(スペイン国王保護)が布教で争っていた。

政宗の野望はフランシスコ会の宣教師フライ・ルイス・ソテロのアイデアと著者は推測する。政宗が寵愛していた外国人側室の病気をソテロ部下の修道士が直して信頼を得た。後藤寿庵という政宗が伊達藩キリスト教徒のまとめ役に任じていた家臣がソテロを紹介する。なお当時の宣教師などの間では、ソテロについて相反する評価がある。対立するイエズス会による評価もあるが、とかく噂のある才人であったことは間違いがないようだ。

慶長14年(1609)にフィリピン前臨時総督のドン・ロドリゴ・ビベロの船が上総沖で遭難する。そのお礼にメキシコから派遣されたのがビスカイノ。家康はメキシコとの通商や銀鉱石の新しい精錬法(水銀アマルガム法)の導入を願う。ただスペインは商教一致主義でキリスト教の布教が許可されないと通商は難しい状況であった。
政宗は商教一致を表面だけ受け入れ、通商を狙う。後藤寿庵を通じて岩手県奥州市水沢地区にキリシタンの居住区を作る。
メキシコとの通商という面では徳川幕府の考えと政宗の考えは一致し、500屯のサン・ファン・バウティスタ号の建造が許可され、幕府船奉行向井将監も協力する。

慶長17年(1612)に幕府は禁教令を出し、江戸のキリシタンを迫害する。慶長18年にはソテロも捕まる。政宗は遣欧使節の件で必要な人物として、幕府と交渉してソテロを救う。そしてソテロは仙台に来る。

この時は関ヶ原の戦いが終わっただけの時で、豊臣家はまだ存在していた。政宗は野望が発覚した時のために、伊達家で家格が170番目の支倉常長を使節として選ぶ。支倉への密命は口頭でスペイン、ローマで伝えられた。ソテロはスペインだけの交渉ではうまくいかないと考え、ローマ教皇からスペイン国王へ命令して、使節の目的が果たせるように画策した。ただ両方とも政宗の信仰心を疑問に思い、相手にしなかった。政宗は洗礼も受けておらず、側室300人などの悪い噂も伝わっていた。

支倉はサンティアゴ騎士団の騎士任命の請願を拒否される。なお政宗はキリスト教騎士団を創設を企てており、その時に支倉がサンティアゴ騎士団だと都合が良いわけである。当時の日本のキリスト教徒の数は37万人とされる。
そして政宗が日本のカトリック王に叙任されて、スペインの軍事力と手を結ぶわけである。

支倉が元和6年(1620)8月24日に仙台に帰着する。政宗はローマ、スペインに野望が受け入れられなかったことを知る。この2日後に伊達藩領でもキリシタン弾圧をはじめる。(それまでは幕府の禁教令に反して、後藤寿庵を通じて岩手県奥州市水沢地区にキリシタンの居住区を作っていた)

なお幕府は支倉と同行してメキシコまで行った向井将監の家臣たちから政宗の陰謀を知ったのではないかと推察する。

以下はこの本には書いていないことだが、日本国内での環境も、政宗の野望を砕いていたことも忘れてはならない。

@松平忠輝は慶長11年(1606年)に大久保長安の仲介により、政宗の長女五郎八姫と結婚する。
A大久保長安の息子の嫁は忠輝の附家老花井吉成である。
→以上から政宗・松平忠輝・大久保長安の深い関係が生まれる。

A元和2年(1616年)に政宗の娘婿の松平忠輝は兄・徳川秀忠から改易を命じられる。
B慶長18年(1613)に大久保長安事件がおき、大久保長安の一族や関連した大名等も処分を受ける。
C慶長20年(1615)に大坂夏の陣で豊臣氏が滅ぼされ、徳川の天下は盤石となる。
→この時点で政宗・松平忠輝・大久保長安の同盟は潰え、一方、徳川体制は盤石になり、野望実現は無理と認識したと思う。


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