「関東戦国全史」 山田邦明 編

この本は4人の研究者が執筆分担した書で、関東全域にわたる戦いを、室町時代の享徳の大乱から、秀吉の時代までを記述している。多岐にわたるから、読み難い本であるが、関東の戦乱を調べる人にはいい本だろう。

関東は京都とは別の政権があったと考えた方がいい。それは鎌倉(古河)公方家(足利氏)を中心として関東管領家(上杉氏)が補佐する体制である。そこにおいて、公方足利成氏が関東管領上杉憲忠を謀殺する事件が1454年に起きる。これで関東の豪族は2つに別れて戦う。足利成氏は古河にとどまり、古河公方と称される。京都の幕府(足利義政)は上杉家に助勢し、新たな公方として足利政知を任じる。伊豆の堀越を拠点としたので堀越公方と言う。
京都の応仁の乱は、関東の騒乱に積極的に関わろうとする足利義政、それを補佐に長く管領を勤めている細川勝元への反乱とも言える。

やがて古河公方と上杉氏は和睦するが、今度は上杉氏の内部で山内家と扇谷家の対立、戦いが起きる。
山内上杉の家宰の長尾景信が死去し、その後継を嫡男の景春でなく、弟(景春には叔父)の忠景が嗣ぐが、これに景春は不満を持つ。景春に対抗して扇谷上杉の家宰の太田道灌が奮戦する。1482年に足利成氏は足利義政と和睦する。享徳の大乱は終わる。

1486年に扇谷上杉定正は家宰太田道灌を謀殺する。山内上杉顕定は太田道灌の遺児を保護することで上杉定正と対決する。定正は足利成氏、長尾景春を味方につける。1487年からの戦いを長享の乱と呼ぶ。こうした中、伊豆から伊勢宗瑞(北条早雲)が立ち、堀越公方家を追い出す。公方の茶々丸は山内上杉を頼ったために、伊勢宗瑞は扇谷上杉側となる。足利成氏は裏切って山内上杉に付き、1505年に山内上杉家の勝利になって終わる。

今度は古河公方家で政氏と嫡子高氏との不和・内紛が起きる。越後で守護代の長尾為景が守護の上杉房能を襲撃する下克上が起こり、上杉顕定は越後に出兵する。そこで戦死する。
この後継を廻って山内上杉家も分裂する。1512年にそれぞれの分裂状況はおさまる。

これらの戦いの過程で、関東の有力豪族の佐竹、小山、結城、宇都宮、上総の武田、安房の里見の各家でも内紛が生じて、敵、味方に分かれて戦う。

伊勢宗瑞は1516年に三浦氏を亡ぼす。息子の氏綱は1523年に伊勢から北条に姓を変える。孫の氏康と相模から関東全域に勢力を伸ばす。
山内上杉が滅ぶ時に関東管領職を越後の長尾景虎に譲り、彼は上杉謙信として関東に出兵してくる。関東豪族はこの戦いにおいて、上杉方、北条方のそれぞれに付いて戦う。

隣国の駿河の今川氏は信長に負け、徳川家康、武田信玄が遠江、駿河に進出し、その武田も織田・徳川に討たれる。信長横死の後に混乱するが、豊臣秀吉が天下人になる。その時の対応を誤り北条氏は1590年に滅び、徳川家が関東に入ってくる。

こういう戦いの中で関東諸将の軍が、北条軍や上杉軍に常に押されていたかというとそういうことはなく、関東諸将の軍が勝利していることがあることを知る。
扇谷上杉の上杉朝興が主導して山内上杉と武田(真里谷)氏と共同で北条氏綱を白子原(和光市)で1525年に破る。上杉謙信も下総臼井城で原氏に1566年に負けている。1567年には北条氏康は三船山(君津・富津市)で里見軍に負ける。
北条軍、上杉軍と関東諸将には、動員できる兵力に差があるものの、兵器・戦術には大差が無かったと私は認識した。

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