「江戸の「事件現場」を歩く」 山本博文 著

軽く読める本だが、江戸=東京の歴史上の事件現場や、その人物・出来事にゆかりの場所が現代の地図に掲載されており、興味深い。
私が一時期、事務所を構えていた西神田の水道橋西通りだが、ここも講武所の一部だったことを知る。日大法学部に講武所跡地の説明があったが、もっと広く、私が構えた事務所あたりもそうであり、窪田清音が歩いていた可能性もあったわけだ。
はじめて事務所を構えた神田須田町でも、事務所の場所とは少しずれるが、そこは往古は連雀町として由井正雪が塾の張孔堂を開いていたのを知る。

広い所と言えば綱吉が犬の収容施設を作ったのが中野サンプラザも含む、中野駅の高円寺寄りの一画だったことを知る。

柳生宗矩の屋敷は、大刀剣市でおなじみの美術倶楽部の手間にある愛宕警察署であることも知る。

九段下の靖国神社も含めて、そこが剣客斎藤弥九郎の練兵館の跡とのことだ。

山本博文氏の著作であり、私がはじめて知る話も多く掲載されている。

明暦の大火の火元とされている本妙寺の北側に老中阿部忠秋の屋敷があり、阿部家は本妙寺の檀家でもないのに毎年多額の供養料を納めていた。また火事後、本妙寺が罪を問われることもないから、実は本当の火元は阿部家だったとの説もあるようだ。

浅野内匠頭が天和3年に勅使饗応役を務めた時の費用は400両。荻原重秀の貨幣改鋳があり、インフレが進み、元禄10年に同役を務めた飫肥藩は1200両を使う。これに対して、内匠頭は700両の予算とした。倹約しすぎた。

伊藤博文は英国公使館の焼き討ちを行い、塙忠宝(塙保己一の4男で学者)を暗殺しており、テロリストであった時代が存在していた。維新の歴史が改竄されているのも当然である。

牢屋敷支配の石出帯刀は有名だが、禄高300俵10人扶持で、身分は低く、将軍の外出時に尿筒を持つ役の「公人朝夕人」の次の位置づけだった。

天覧兜割をした榊原鍵吉は身長180㎝、上膊部の太さは54㎝もあったそうだ。兜割が出来たのは胴田貫正国だけではないのだ。

堀部安兵衛は越後新発田藩溝口家で200石の中山次右衛門の長男として生まれ、父は城の櫓からの失火の責任をとり、溝口家を逐われる。姉の嫁ぎ先の長井家に引き取られ、19歳で長井家の親戚の佐藤家を頼り、江戸に出る。堀内源左衛門の道場で剣名を上げる。道場で西条松平藩の菅野と親交を深め、義理の叔父、甥の関係を結ぶ。菅野に保証人になってもらい旗本稲生家の中小姓になっていた。その菅野が同藩の村上と口論。高田馬場で果たし合いとなる。村上派は7人、菅野は2人であり、安兵衛が助太刀して活躍したわけだ。
赤穂藩の堀部金丸が娘ほりの婿養子として望む。断るが、堀部が自身の堀部家は絶えて、中山家でもいいからと浅野内匠頭に言上。内匠頭は許可するが、安兵衛がそこまで乞われるならと堀部家に養子に入る。



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