「シリーズ藩物語 水戸藩」 岡村青 著

次のような章立てになっている。「1.かくして水戸藩は始まった」、「2.藩財政破綻と騒擾事件頻発」、「3.水戸藩歴代藩主の治績」、「4.沸き立つ尊皇攘夷と水戸藩」、「5.版籍奉還と水戸藩の終焉」である。

この藩の悲劇は幕末の党派抗争である。読むと明治にまでしこりは残ったことがわかる。大元は藩が寄せ集めの家臣団から出発したことにあるのかもしれない。
当初は徳川家臣団に、武田信吉が当初の藩主だったことから、万沢、馬場などの甲州勢が加わる。次ぎに八王子の北条家に仕えて忠節を尽くした中山家の後継者中山信吉を中心とする北条勢が入る。地元の小山氏、佐竹氏につながる者なども仕えている。

それから水戸藩に特異な藩主の江戸定府制がある。この為に江戸屋敷の武士と、国元の武士との意識の差が生まれる。

それから、教育にも熱心で、藩校の弘道館以外にも郷校を開き、教育を盛んにしたことで、そこで学んだ人物が幕末には登場する。

そこに名君の斉昭の人材登用である。登用された人材と門閥派の対立が生まれる。江戸定府だけに幕府からの藩政への介入もあり、それに門閥派が乗るという構図である。

「4.沸き立つ尊皇攘夷と水戸藩」に藩内対立が詳しいが、斉昭は名君で、個性が強く、有能な人材を登用したのはいいのだが、これによって門閥との対立を生む構造をつくる。そして仏教排斥・神道崇拝の行きすぎ、それから井伊大老と対立。この過程で幕府は門閥派に根回しをする。

攘夷派は天狗党となって蜂起する。水戸藩は藩校の弘道館以外にも郷校を開き、教育を盛んにする。そこに過激な攘夷派も生まれる。彼等も天狗党に参加する。
天狗党は水戸藩改革派を中心に斉昭の遺訓として攘夷そして尊皇である。門閥派は譜代家臣で構成され、幕府の方針に従う。その子弟が諸生党である。この2大派閥に大発勢(攘夷断行、水戸街道の宿場町に屯集する攘夷派だが当初は天狗党には加わらない)、鎮派、鯉渕派が付随する。京都にいた攘夷派は本圀寺派と言われる。

門閥派が力を持った時に、天狗党の家族にまでひどい弾圧を加える。この為に、力関係が逆転すると、今度は門閥派の家族まで弾圧するということになる。これで明治にまで抗争が続くことになる。

天狗党は結局、中山道を辿り、美濃の揖斐まで行き、そこで京都に向かうのをやめて若狭路に向かい、加賀藩に投降する。一橋慶喜を頼って京都に向かったのだが、慶喜は天狗党を追討との意志とわかり、そのように投降したわけだ。ここで悲惨な末路を辿る。
考えてみれば一橋慶喜は英明とされただけに期待を集めるが、結局、彼等の期待を見事に裏切ることを、この時も、鳥羽伏見の時にも行うわけだ。

天狗党をむざむざと通過させた諸藩の堕落も明確になっている。もう、この時点で藩の軍事力など、テロ勢力(天狗党)に負けていたわけだ。

「1.かくして水戸藩は始まった」では当初武田信吉だが慶長8年に死去。そこで徳川頼宣(後の紀州藩主)が継ぐ、その後に弟の徳川頼房が7歳で継ぐ。はじめての御国入りは元和5年、17歳である。
御三家と言われているのは5代綱吉の頃である。尾張、紀州はその前から御三家とされていた。水戸藩は参勤交代を免除され、江戸定府だった。水戸に御国入りするのを就藩とよぶ。定府制の為に江戸の藩士と水戸の藩士の対立がおこる。江戸定府の為に江戸屋敷での費用負担が財政を圧迫する。
光圀は名君で『大日本史』の編纂事業もはじめる。だが、藤井紋太夫(綱吉の側近柳沢と結託したと伝わる)を暗殺する。

「2.藩財政破綻と騒擾事件頻発」では水戸藩は山間地も多く、年貢は厳しく取り立てた。前の佐竹氏との関係もあり、反徳川の気運もあった。生瀬郷騒擾事件として藩の役人が村人を皆殺しにした事件も生じているが、記録が消され、いつ生じたかも不明である。宝永頃には松波勘十郎の改革に反対する一揆も起こる。また天明の飢饉も直撃する。


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