「出雲のおくに その時代と芸能」 小笠原恭子 著

歌舞伎踊りの創始者の「出雲のおくに」を伝説・伝承ではなく、できるだけ同時代の公家、武家の日記類などから実態を明らかにしている本である。新書だが読みやすくはない本である。

なお、「かぶき」という言葉は、平安末期の『小右記』に「傾奇」があり、室町の義満の頃にも世阿弥の件でこの字が出る。変わり者という意味は同じ。また歌舞妃(女性が演じる)から近代になって歌舞伎に変化したそうだ。

「舞」と「踊り」の違いだが、舞は宮廷において、神のよりしろを中心に静かに旋回・まわるものである。この動作が速くなったのを「狂う」と呼ぶ。
「踊」は、一般民衆の行為で、跳躍する動作が入り、 ハシルにつながる。

盆踊り、風流踊、これが公家にも伝わる。信長の土木工事、秀吉の豊国祭と、「土民まで美々しきことを見聞する、弥勒の世」が安土桃山時代である。

なお踊りの流行は、時代の予知現象でもある。北条氏滅亡を招いた田楽能、赤松満祐の時の大名松囃の盛行、大坂の陣直前の伊勢踊、幕末のエエジャナイカなどがある。

さて出雲のおくにだが、天正9年(1581)に宮廷で「ややこおどり」が獅子舞の前に演じられる。これを演じた2人は7才、10才の童である。 この時は加賀国出身(本当に加賀かは不明)と述べていた。これの一人が「お国」であろう。この1年後に春日若宮で演じる。童女がおとなの恋の歌にちなんで演じたようだ。

天正16年には京都の近辺にいる。この間に山陰の方をめぐり、出雲大社から勧進の許可をえる。天正19年に北野天満宮でややこおどおりの座が興行許可を求めている。

諸国(大和、浜松)をめぐり、数年に一度は京都で演じるような興行だ。慶長5年から若狭、越後、佐渡に渡る (慶長6年以降の佐渡金山急成長)
慶長8年(1603)に宮廷でかぶきおどりを演じる。「好女にあらず」とあり、美人ではないと推測している。
出雲のおくにが、男装して、かぶき者に扮し、茶屋通いをして女と戯れるさまを歌と踊りでみせた
その服装は華麗で、紅梅の肌着に唐織りの小袖、赤地金襴に萌葱裏の羽織を着て、黄金造りの鐔に、白鮫鞘の太刀を帯び、黄金の張鞘の大脇差ははね差しに、首にはいらたかの大数珠をかけていたと伝える。
かぶき踊りとして京中の人気を独占した。

後陽成天皇の生母の新上東門院は芸能を好み、宮廷に芸人が出入りしていた。おくにのパトロン的な人物であった。

「天下一」の名をえる、また「対馬守」を名乗る。北野の定舞台で演じ、時に近国(畿内から尾張、桑名)で演じる。
慶長12年2月以降は北野カブキの言葉が出ない。江戸に下り、慶長17年にふたたび北野にくる。この時40才である。元和4年に宮廷でかぶき踊りを演じる。元和4年に47、8才。元和6年に新上東門院が逝去。

一座には道化師の猿若がいた 狂言師の出身である。またおくにの周りは名前に「三」がつく男が多い。名古屋山三もそうだし、夫が三十郎もしくは三九郎、父親も三右衛門。
男女10人ばかりの座、囃子方をいれて17、8人ではないか。

女歌舞伎が諸国から消えるのは寛永も後半(1630年代)からである。
元和3年頃までは宮中にも女猿楽が行われていたが、元和5年には江戸に聞こえ、外聞沙汰の限りとなる。
元和6年に和子が宮中に。東福門院として寛永年間の宮廷文化の形成に一つの役割を果たしたが、それは入内後かなりの年月を経てから


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