「あなたの知らない茨城県の歴史」 山本博文 監修

タイトルのように、文字通り茨城県の歴史を古代から近代までに渡って、トピック(話題)ごとに簡潔かつわかりやすく書いた本である。
古代において常陸国は大和朝廷の支配が及ぶ東海道の終点(常陸国府は石岡市)であった。蝦夷への軍事拠点でもあったわけである。その強い軍事力は九州防衛の防人にも動員された。

古代は今の霞ヶ浦がもっと広く、印旛沼、手賀沼も含めたような香取内海(かとりのうみ)として広がっていたようだ。だから船を操ることに巧みで、海を通して他地域とも交流があった部族が栄えていた。鹿島神宮、香取神宮は大きな神社だが、海(香取内海)に突き出た場所に鎮座している。熊野、伊勢などと同じ立地パターンであり、海上から渡来した人々が開拓して文化圏を作ったと考えられる。

茨城県内には北部九州と同様な鮮やかな赤(酸化鉄)で丸や三角の紋様や武具が画かれた彩色壁画古墳がある。同じ部族なのであろうか。

風土記には筑波山で男女が集まって乱交まがいの宴会する「かがい」という催事があったことが書かれている。このような催事は中国南部からインドシナ、インドネシア、フィリピンに残る風俗であるようで、日本人のルーツを物語る。

常陸南西部の常総台地は平坦で、開墾すればどこでも農業な可能な肥沃な土地であった。当時は常陸全域で約20万人ほどがいたと推測している。

俘囚と呼ばれる投降蝦夷も常陸、下総には多く、その反乱が9世紀後半におこり、馬を使う運搬業者も群盗化して「僦馬の党」(しゅうばのとう)の反乱も起こる。国司は武勇の輩(ともがら)を軍事力とした。これが武士のはじまりで、これらの部族は営所を各地に設ける。

平将門は親族との相続争いが発端で戦いをはじめるが、各地の豪族から助力を求められ、その内に関東諸国の国府を攻略するようになり、新皇と称するようになる。関東に平将門を受け入れるような中央政府への反感があったわけであり、これが頼朝の鎌倉幕府に通じる。

頼朝旗揚げの時に、当初は佐竹氏(同じ源氏だが)は与しなかったが、佐竹一族の一人が頼朝方となり、金砂合戦で勝ち、のちに御家人となる。

また八田氏(下館)が勢力を増し、後に小田氏となり常陸に勢力をはる。

親鸞は常陸で20年布教活動をする。その後は一遍の時宗が勢力を伸ばす。

鎌倉末期は北条家が内海の拠点をおさえる。南朝方の北畠親房は奥州計略のために、伊勢を出たが、途中嵐で常陸の東条浦(稲敷郡)に着く。そこから東条氏、小田氏の力を借りて、北朝方の佐竹氏や鹿島氏と戦う。結城氏は当初は中立だが最後は足利方となり、北畠親房は伊勢に戻る。

この後、常陸の豪族は上杉禅秀の乱の時に一族相争う戦いをする。この頃は惣領制が薄れ、庶子家が独立して、各自が自分の家の為に戦ったからである。
この後結城合戦でも争う。鎌倉公方足利成氏が鎌倉を追われて古河に移る。その後、佐竹氏の内紛である佐竹の乱が起こる。これは百年続く。

戦国時代、常陸では佐竹のほか、江戸(桓武平氏の秩父氏の流れ)、小野崎、大掾(桓武平氏で平国香の子孫)、鹿島、島崎、小田(宇都宮氏の一族、八田氏)、土岐、結城(秀郷の子孫小山氏の流れ)などのが諸氏が争っていた。多賀谷、水谷もいた。

後北条氏が勢力を伸ばし、佐竹と争う内に、中央に豊臣政権ができ、その後は徳川政権となる。佐竹は関ヶ原以後に秋田に転封となる。

以降は徳川光圀のことや水戸学、幕末の党派争いの話があり、近代の日立製作所や水戸納豆の話などが続く。

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