「ギリシャ人の物語Ⅰ」 塩野七生 著

この著者の「ローマ人の物語」は全巻読了して、丁寧な読書ノートも作成している。今は歳であり、塩野七生氏の警句を書き留めておく気持ちも無くなった。
次の4章に大別されている。「1.ギリシャ人て、誰?」、「2.それぞれの国づくり」、「3.侵略者ペルシャに抗して」、「4.ペルシャ戦役以降」である。

「1.ギリシャ人て、誰?」ではオリンピックについて語る。開催地オリンピアはイオニア海に面していて、ギリシャの中では緑が多い地域のようだ。第1回が紀元前776年。スタジアムの語源となったスタディオンは185㍍程度。種目は段々と増えてきて、選手は裸体で参加。当時ギリシャは500を超える都市国家に別れていた。ギリシャ語を話し、ギリシャの神々を信仰することが共通項であった。4年に1度、」1ヶ月間開催され、この間は休戦であった。紀元前393年に廃止を命ぜられるまで292回開催された。各都市国家郡立の中では必要な祭典だったわけである。

ギリシャ人の各都市は海を通して、地中海沿岸に入植地を作っていった。

「2.それぞれの国づくり」ではスパルタとアテネについて詳しい。スパルタは北からのドーリア民族が征服して出来た都市で、征服者と被征服者の階層が固定化されていた。スパルタ→ペリオイコイ→ヘロットで1対7対16程度の人口構成であった。紀元前8世紀の末にリクルゴスが諸国を歴訪後に改革の法令を整備する。著者は改革というよりスパルタの憲法のようなものと言う。

スパルタ人は選ばれた赤子だけが育てられ、7歳までは母親、それ以降は主に武術の訓練の集団教育を受ける。20歳時に弓矢と剣と槍と楯だけで山野に出され、一人で7日間生き抜く。そして7日めにはヘロットを一人殺し、首を持ち帰ることになる。30歳までは集団で、それ以降に妻と子どもたちとの生活ができる。そして市民集会があり、その上に60歳以上の長老会議28人に王が2人。王は名門家系から2人が就任していた。監督官庁という5人からなる監視機関があった。食事は黒く濁ったスープの中に固い肉が浮いているだけのスパルタのごった煮という状況であった。

アテネはソロンが紀元前594年にソロンの改革(債務者は債権者の奴隷になる法を撤廃。通貨の価値を下げる。市民を4階級に分け、それぞれの軍役義務を明確など)にを実行した。

ペイシストラトスがサラミス島を攻略。トラキア地方で銀鉱山を開発。壺の製産などの産業を興す。その後テーベと戦争が起こる。スパルタの介入があり、紀元前508年にクレイステネスが改革。都市部、沿岸部、内陸部にわけて対立しないように区分して戸籍を与える。それが重装歩兵の拡充につながる。一般の市民まで国政に積極的に参加できる政体をつくる。

「3.侵略者ペルシャに抗して」ではペルシャ帝国が中東全域を支配してきた経緯を説明する。前525年エジプトも支配下にし、ダリウス1世は西方(ギリシャ)にも目をむける。第一次ペルシャ戦役が発生する。

アテネには名門出のアリステイデス(穏健派)、6歳下のテミストクレス(過激派)がいた。ここにミリティアデスという軍事の才能のある人物があらわれる。
ペルシャ軍は25000。紀元前490年にマラトンで戦いがおきる。騎兵は少なく、重装歩兵ではなく軽装歩兵が主に目をつけてペルシャを破る。戦死者は6400と192である。この時スパルタは1日おくれの到着であった。

その後、テミストクレスがアテネ海軍の増強に勤める。第二次ペルシャ戦役がはじまる。ペルシャ王はクセルクセスであった。
紀元前480年のテルモピュレーではスパルタ王レオニダスが300人で守るが全滅する。ただしペルシャ兵が2万人以上死んだ。
テミストクレスはアテネの市民を疎開させて、サラミスの海戦でフェニキアの船300~400隻を沈めた。ギリシャ側は40隻の損害である。

プラタイアの戦いではスパルタのパウサニアスが指揮を執って勝利する。

「4.ペルシャ戦役以降」ではペルシャ戦役の英雄たちが民主主義を維持する制度(陶片追放、監査官制度など)中で失脚していく様子を描く。

アテネは海港のピレウスと直線的な回廊を建設し、海洋王国を強化し、商業も発達する。
そしてアテネを中心とするデロス同盟が紀元前477年に生まれる。(以前はスパルタを盟主とするペロポネソス同盟)


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