「火縄銃・大筒・騎馬・鉄甲船の威力」 桐野作人 著

面白い本だった。火縄銃では、その構造、製法なども詳しく、製産体制としては大友、織田氏の例を挙げている。また大砲(青銅製だと石火矢、仏郎機、波羅漢)のことも詳しい。鉄砲の口径を大きくした大鉄砲にも触れている。永禄年間の毛利元就の史料にあるとのこと。
そして信長は大筒を伊勢長島攻めで用い、後に九鬼水軍の安宅船にも搭載されている。大筒は持ち運びが大変であり、はじめは守城用の武器として使われる。北条氏も対秀吉戦に用意している。大坂の陣では淀君を震え上がらせている。大砲の射程と軌道の図も掲載されている。
大事な火薬に使う硝石のことも詳しい。中国の山東省や四川省などが当時の輸入先である。国産も土硝法として後に造られるようになる。馬屋の土などが利用される。

射撃術では信長は名人クラスだった。そして旗本鉄炮(馬廻りの直属部隊の鉄砲)を活用した。長篠合戦では武田勝頼を挟撃することに成功して、鉄砲隊の前面に武田軍が向かわざるをえないようにして勝利した。信長の鉄砲は、直属部隊だけで鉄砲は1500挺あったと推定される。他部隊のも含めると数千挺は可能である。
財政基盤と兵農分離が基礎にあって、これだけの鉄砲を揃えられたわけである。

伊達政宗は、豊臣政権によって、本来の領地が取り上げられ、より北の方にスライドさせられる。このことで旧家臣団の知行地も解体され、新たに編成できた面もある。そして鉄炮を重視した軍団の編成に着手した。上杉軍と最上領で戦った時は馬、弓、鑓、鉄砲の内、鉄砲が44.4%を占めるに至っている。大坂の陣になると、馬上560騎、鉄砲3470挺、鑓1310本、弓100張となる。また伊達の騎馬鉄砲と言われているが、加賀前田家にも馬上鉄炮という馬廻衆がおり、他家にも存在した。
また島津氏は足軽でなく武士も鉄砲を操作し、繰抜と称される方法で、3組に分かれ、1組が撃ったら、その前に1組が出て撃ち、その後はまたもう1つの組が前に出て撃つという方法をとったようだ。この場合は前積もり(事前に各組が進出するところを印しをつける)が大事となる。関ヶ原では前積もりが出来ずに慌ただしく鉄炮を撃った。

馬では、騎馬突撃というものは、味方が有利となって、敵が崩れてきた時に優勢を確定するために突撃するものだったのは陣立てで明らかと書いている。長篠の戦いで騎馬突撃が無かったと最近言われているが、あおの時は、騎馬で前を切り開かないといけないような状況に追い込まれ、結果として騎馬突撃があったのではと推論している。
また馬はやはり、馬面と馬鎧(皮でできたもの)を付けていたのが本当ではないかと思うようになる。目標の大きな馬体を保護しないと戦いには行けないと思う。

他に船のことで鉄甲で覆った安宅船のことなども書いているが、詳しくなるので省略する。

それから、戦国時代に行われた水攻めのことを1章設けて詳述している。秀吉の備中高松城の水攻めだけではなかったことが理解できる。土木技術の進化があってこその戦術である。

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