「「道」で謎解き合戦秘史」 跡部蛮 著

戦国時代の合戦を、当時の道に焦点をあてて、説いた本である。もう少し面白く、ドラマティックな内容を期待していたが、そんなにこれまでの常識を覆すような話が書かれているわけではない。それは当然なのだが。

道に焦点を当てているわけであり、当時の地図も挿入されているのだが、それらが今一つわかりにくい。当時の川の流れ山の標高なども織り込んで地図にしてあると、もっとわかりやすいのかもしれない。道は地形の結果による必然という面もあるからだ。

この本には、もちろん、私が知らなかったことも記されていて、なるほどと思うところもある。

桶狭間の戦いは、戦いの場所そのものも諸説があるようだが、信長が桶狭間に向かった道について推察しており、義元軍から進軍が見えてしまうが近道を通り、行軍速度を上げ、そこに天候の急変があって義元側に進軍が悟られなかった為に奇襲が成功したのではと論じている。

小谷城は北国脇往還に面しており、また小谷城がある山と向い側の山(ここにも砦がある)がV字に切れ込んだ谷を隔てており、その谷が城への一つの入口となっており、非常に攻めにくい立地だったとある。近くの山々にも支城群があり、織田軍はその一つの横山城を落としてから支城を潰しながら小谷城を攻略した。

明智光秀が本能寺へ至る道も、従来の『信長公記』による老ノ坂越えだけでなく、『明智軍記』も参考にして、明智軍は軍勢を3つに分け、明智秀満隊は老ノ坂越え、光秀軍はその北側にある唐櫃越えの道を通り、明智光忠隊は山陰道をまず行き、途中から唐櫃越えの道をとったと推測している。

秀吉の中国大返しにあたっては、情報を老ノ坂から山陰道を通り、夜久野(福知山市)に至り、そこの地侍から秀吉の弟秀長へのルートが機能したのではと推測している。

信長没後の関東で北条と徳川が争った時に、当初は北条が優勢であったが、徳川方が北条の信濃、甲斐へ進出した軍への補給路を絶つことで講和に持ち込んだと述べている。

賤ヶ岳合戦では、柴田軍が造った道(栃ノ木峠、椿坂峠)が雪で進軍できずに、木ノ芽峠を通って敦賀の方から近江へ進軍する。しかし賤ヶ岳で敗れた時は雪が解けていて、勝家が造った道で秀吉軍に攻められて落城した。

他に、川中島合戦、関ヶ原合戦、黒田如水の九州征服、大坂の役での道の役割が書かれている。それに合戦ではないが家康の江戸入府の道という章もあり、それぞれの合戦に興味のある人には参考になろう。

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 1

なるほど(納得、参考になった、ヘー)

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック