「生誕150年 横山大観展」 於国立近代美術館

昨日(火曜日)に妻と出向く。結構観客は多かったが、会場の係の人に確認すると「平日はこのくらいの混雑状況」とのことだ。会社員のような人もいた。混雑に関係するのが絵巻物の展示だ。今回の展示の目玉である「生々流転」は特別な第2会場を設けて、そこに40メートルのケースに入れて展示されていた。途切れなく人がいたが、並んで進みながら全部を観ることが出来た。絵巻きは保存の関係もあり、ガラスケースの下に広げて、それを上から覗くような形式になり、一度に多くの人が観ることができない。「鳥獣戯画」の展示があった時は、人が多く、ほとんど観ることができなかったことを思い出した。

この感想だが、墨だけの色の変化で、よくこれだけの絵を画けるものだと感心した。墨で駆使できる技法を使い切り、表現しているようだ。関東大震災の時に展示され、幸いに無傷だったと解説にあった。

展示されている絵としては、私は富士山の絵が最も好きである。当初はわりと抽象的な富士を描いていたが、後半は写実的な富士となる。写真家の岡田紅陽と知り合ってから、写実的になると説明があり、なるほどと思う。
抽象的な富士山は展覧会のポスターにもなっている「群青富士」の大屏風の絵だ。画面の大きさもあり、雲海の中に浮かぶ富士山の雄大さが表現できている。色も目を惹く色使いだ。

この展覧会で、横山大観は日本画らしくない題材を意欲的に画いていることを認識した。キリストと孔子、老子、釈迦が一人の子供の後ろに立つ「迷子」(これは木炭の濃淡で画いているようで怖ろしい描写力だ)やガンジス川を描いた「ガンジスの水」、「ナイヤガラの滝と万里の長城を描いた屏風、ハレー彗星などを思い出す。

前期と後期というか、展示時期が限定されているものもあるが、今は前期の展示である。「屈原」の大作が出品されていた。大きな絵であり、悩んで怒っているような屈原である。頭と身体のバランスが悪い感じもするが、力強い作品で印象に残る。

「屈原」も大きな人物だが「焚火」において焚き火の両隣の中国風の人物では、横顔における鼻筋が直線的過ぎて違和感を持つ。

琳派風の色遣いの葉を描いた屏風などは、琳派ほどの華麗さ、優美さはなく、この人はやはり雄壮、雄大という男性的特性の表現の人なのかと感じる。

このような展覧会だと代表作中心、それは大きな絵が多く、屏風にしても掛け軸にしても大きな画面で、今の住宅には無理だと感じる。こんな感じを持つのは庶民だからであろうか。

国策に乗って、絵画を売って、その代金で軍用機を献上するというような意図で画かれた絵もあるが、大観の画風の雄大なところにあっていると感じる。
当時、日本画は横山大観、洋画は藤田嗣治が中心になって、国の為に協力したのだと思うが、大観は富士山、桜が画題だから、それほど非難されないが、フジタは戦場の絵も描いているから戦争協力者と非難する人もいる。こういうレッテル貼りはおかしいと思う。

会場は「生々流転」が下絵も含めて、単独で第2会場、第3会場は土産品売り場の方が目立つ。

展覧会は時代別に「1.明治の大観」、「2.大正の大観」、「3.昭和の大観」に分けられている。

この券で、近代美術館の常設展も入れるが、その中では私は関根正二の「三星」と長谷川利行のガスタンクのある絵が好きだ。こういう絵を観ると、絵とは技術、技巧ではないと感じる。
野田英夫、セザンヌ、マティス、青木繁の絵も印象に残っている。最近はマティスや梅原龍三郎の色彩感覚にも惹かれるようになった。


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