「シリーズ藩物語 福井藩」舟澤茂樹 著

福井藩(越前藩)の成立から幕末まで、また明治の廃藩置県のことまでの歴史を書いている。なかなか興味深い本で、江戸時代の歴史を一藩単位で見るのも面白いと感じる。同様に明治維新に到る幕末動乱の歴史も、福井藩の松平春嶽を中心に見る方がわかりやすいことにも気がついた。

幕末などは、全体の歴史は幕府、各藩の立場、各藩の中でも公武合体派、勤皇派などが入り乱れる歴史でわかりにくいが、一つの藩の歴史から、時代の趨勢が理解できることに気が付いた。特に越前藩は、松平春嶽、橋本左内、横井小楠などが登場するだけに面白い。

はじめは関ヶ原後に家康の次男で太閤の猶子になっていた結城秀康が大封で越前藩を成立させる。関ヶ原の戦いの時に、東国で上杉軍を抑えたことを評価されたということだが、加賀藩への抑えを彦根藩とともに担う役割だったと考えられる。

結城秀康の微妙な立場(秀忠の兄)から制外の家と位置づけられる。藩政においては有力家臣を大きな俸禄で寄せ集めたために、それぞれの家臣対立がおきやすい家であり、それが越前騒動につながる。領地の8割が家臣に分与であり、万石以上の家臣が11名いたという状況である。言い換えれば有能な家臣を集めたとも言える。

慶長12年(1607)に松平忠直が継ぐが、慶長16年(1611)に家中を2分した越前騒動(久世騒動)が起き、幕府の介入で収まる。

慶長19年(1614)の大坂冬の陣と翌年の夏の陣で忠直は奮戦する。加増は弟の忠昌が1万石から越後高田25万石と大きいが、忠直には無かった。この頃から忠直は荒れはじめ、結局は豊後に配流となる。

その後は忠昌が越後高田から移り、49歳で死去してからは、その子の光通が継ぎ、彼は英明の誉れ高い君主であったが、晩年は正室国姫(歌人でも名高い)の自殺、福井城下の大火、庶子権蔵の江戸出奔などがあり、延宝2年(1674)に自刃する。なお財政が厳しくなり、寛文8年(1668)には俸禄カットのリストラも実施している。

貞享3年(1686)に綱吉によって、7代綱昌(養子との争い)の所領が没収される。その後昌親にこれまでの半分の所領が与えられる。これが「貞享の半知」として、家臣の大リストラが行われる。

譜代の家臣290余人に召し放ちが実施される。知行取りが190余人が含まれ、上士若干名もいる。また与力216人と卒約100人も解雇される。最下層の使用人なども入れると2000人余が削減されたことになる。残留士卒も知行取りが半知、切米取は逓減させる。加えて藩による借米が恒常化する。600石以上だと1割である。

宝永7年(1710)に吉邦が9代となる。名君と評価が高い。10代宗昌は在任2年5ヶ月で急逝。11代は10歳の宗矩が継ぎ、宗矩は家臣の借米と御用金に頼る。また享保の飢饉があり、日光修復のお手伝い普請もある。

宗矩は家格の再興に尽力し、将軍一族から養子を迎える。それが重昌(一橋宗尹の嫡男)である。家格は上がるが、財政は厳しくなる。明和の大一揆(明和5年1768)がおこる。
次の13代治好は奢侈にふける。将軍家斉の娘と婚儀。これで2万石増える。将軍家に頼る。大坂の大名貸しや北前船主からも借りる。

斉善(家斉の24男)の逝去(19歳)で、天保9年に松平春嶽(田安家の徳川斉匡の8男)が継ぐ。

長くなるから、ここまでとするが、江戸時代によく生じた事例(例えば御家騒動、綱吉の大名への厳しい政策、武士の財政逼迫、大名の家格へのこだわり、飢饉、町人からの御用金、大御所政治など)が一藩の事情からよく理解できる。
この後のことは幕末のことなども興味深い。なお政治だけでなく、越前の産業、偉人などのことも書かれている。


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