「戦争の日本史4 平将門の乱」 川尻秋生 著

好感を持つ文章で書いている。平将門の乱の背景が少しわかった気がする。この本では、まずはじめに基礎資料となる『将門記』の史料として価値を検討している。著者は書かれている菅原道真の官位(都に祟りがあるたびに上がる)から10世紀末には成立していたとする。そして東国に関わりのある知識人の筆とし、基本的に信頼できる史料としている。

当時、東国の軍は防人にも征夷にも使われていた(征夷がある時は防人には使わない)。征夷との8世紀後半の戦いで、板東は疲弊する。その後に俘囚の反乱が、特に上総・下総で9世紀半ばから後半に発生している。
この時期に板東では前任国司が土着し、新任国司の指示に従わないということが生じていた。国司の任期は4年だが、任期が終わっても官物が予定通りに徴収できないと上京をゆるされず、不足分を補填しなければならない。この結果、帰らなくなり、土着豪族(郡司層)と結びつく。
また富豪だが浪人という者も出てきて、それらを院宮王臣家が荘園の長や耕作者として傭い入れる。これらが国司に従わない。

もう一つが僦馬の党という群盗問題が9世紀後半に起こる。馬で荷を運ぶ者が盗賊になっている。これに対して
都は検非違使を派遣する。

将門の本拠地は今の茨城県板東市だが、下総国西部で当時は霞ヶ浦が大きく、印旛沼も手賀沼も含んでおり、水上交通の便が良いところであった。
当時の兵士は従類(主人との関係が密で最後まで行動をともにする精鋭の部下)と伴類(数は多いが、主人との関係は薄く、独立した小集団の長)であった。当時は戦闘に勝つと相手の本拠地を焼き討ちして、生産能力も喪失させる。また当時は刈り入れ後の秋に合戦を行う。

将門ははじめ伯父良兼と女性問題で不和となる(将門の妻が良兼の娘)とか、父の良将の遺産争いとの説もある。そして良兼と合戦し、平真樹に誘われて伯父国香と源護と合戦。 将門は若い頃に都に出て太政大臣藤原忠平に仕えていた。

国香を石田(筑西市東石田)で破る。国香の子の貞盛は都に出仕していた。源護の娘が伯父の平良正と良兼に嫁いでおり、戦う。まず良正が敗れ、そこで上総の良兼が立ち、貞盛も参戦し、下野の国司近く(栃木市)で戦い、将門が勝つ。
検非違使庁へ来いと通知があり、将門は上京。うまく弁明できなかったが承平7年の恩赦で帰郷。

良兼が待ち構えて戦闘し、負ける。将門は戦いの準備をすすめるが、脚気となる。妻も一時、捕虜となる。
この後、将門と良兼は戦う。承平7年に将門に良兼に対する追討官符が下る。良兼は丈部(はせつかべ)子春丸を籠絡して武器の場所等を探る。
貞盛は承平8年2月、京に上る。それを将門が追い、信濃国分寺付近で追いつき戦うが勝負がつかず。そこで将門追討の追捕官符をもらう。

武蔵権守興世王と武蔵介源経基が足立郡の郡司で判官代も兼ねていた武蔵武芝と紛争。竹芝は評判の良い郡司。
これに将門が関与。興世王と武芝は仲裁したが、経基を襲う。彼は告発し、相模権介橘是茂、武蔵権介小野諸興、上野権介藤原惟条を任命。問密告使が決められるが、彼等は都を出ない。

常陸国で藤原玄明と国衙が対立する。玄明は僦馬の党的な性格も持つ富豪。追捕官符が出される。そこで将門を頼る。常陸国衙を襲い、勝つ。

興世王は将門にここまで来たら板東全部をと進言する。そして下野の国衙を襲い、上野へ侵入。そして新皇として即位。(当時の関東のことを伝える文書は、いずれも周辺国からだされており、関東は制圧されたと考えるべき)

下総国亭南の地で王城を造る。押領使として下野掾藤原秀郷、常陸掾平貞盛らが任じられる。恩賞(位階のアップ、功田)、藤原忠文を征東大将軍。

将門は貞盛の妻を捕らえるが、貞盛を発見できない。そして兵を解く。残されたのは1000人ほど。そこに藤原秀郷と平貞盛が4000人を率いて合戦。翌日に矢が将門に当たる。

新しい史料の発見があり、そこには平良文が将門敗死の報をいち早く都に伝えていた。これで恩賞を得て、良文の孫の忠常が上総、下総に大きな勢力を築いたのだろう。

将門の乱、その後に平忠常の乱があり、東国は亡国のふちあると認識されるようになる。


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