「鉄から読む日本の歴史」窪田蔵郎 著

昔、読んだことがある本だが再読した。読みにくい本であった。その理由は書いている内容が神話から考古学、説話から歴史、その歴史も西洋史、中国史まで、さらに伝承から科学的な技術史のことまでで幅広い分野に渡ること、それから冶金学の基礎的知識が私には無いためと思う。
以下、興味を覚えたことを断片的に記していく。

中国で鉄は銕という字で登場するから、夷狄から伝わった可能性に触れている。満蒙、シベリアの鉄器文化も極めて古いとも書かれている。中央アジアを追われたトルコ系民族の突厥(ダッタン人)の技術とされており、なるほどと思う。
また出雲から日本では鉄器が盛んになったとの八岐大蛇伝説も含めての通説に著者は疑問を呈している。

古墳時代中期の岡山県の金蔵山古墳では、多数の鉄器が出土し、中に鋳鉄のもあるそうだ。

古墳から発掘される刀剣類は、形状から環頭大刀(狛の剣とされる絢爛豪華な剣)、頭椎(かぶつち)大刀(柄頭の形状が握り拳、卵のような塊状で、この部分に貫通孔を持つ)、圭頭大刀、円頭大刀、方頭大刀(これらは柄頭の形状の違いからきた名称であり、刀身に違いはない)、蕨手刀(柄頭が早蕨のような形状をして柄と刀身が一体となっている。長さが全長50センチ程度と短く、幅が広く、青竜刀を小型にして若干細身にしたような形状)、それに刀子である。

蕨手刀は様式はいくらか変化しているが、奈良期まで使用が続いており、正倉院御物に黒作横刀として伝えられている。貴重な環頭大刀でも全国各地で100点以上発見されている。
蕨手刀は大部分が北海道、東北、北関東に集中している。

なお刀剣類の出土は畿内と並んで群馬が多い。同県ではタタラ遺跡も発見されている。

古墳文化期には奈良県の宇和奈辺古墳の陪塚大和六号墳から多くの鉄鋌(鉄器の半製品の鉄地金)が合計で140キログラムも出た。

南関東では製鉄遺跡が多くある。我孫子市、鹿島市、群馬県などである。

大宝元年(701)の『大宝令営繕令義解』に「軍器を製作する者は皆その作品に製作年月、工匠名をタガネで切らなければならない」とされた。しかし空文に終わる。

奈良時代の剣は四天王寺の国宝丙子椒林剣や正倉院の金銀荘横刀、金銀鈿荘唐大刀などがある。

平安時代末期には座で鉄製品も商われていた。

平安時代に今の日本刀が生まれる。戦乱による需要増、御番鍛冶制度、蒙古襲来の影響も大きい。
室町時代には日本刀を明国に輸出。僧兵に供給した奈良鍛冶が主流である。

永享4年(1432)の遣明船が積載の日本刀は3050把。1434年には13000把、1451年には9900把、1467年には1把2500文で3万把以上。1476年には値下がりして1把1800文で7000把。1486年には1把600文で38610把。明の孝宗の代になるともっとひどい。1511年には7980把を持ち込んだが、規制により3000把を1把300文で買うとされてトラブル。それでも天文8年(1539)には24152把を輸出しているようだ。
明に十万本以上の刀が輸出され、それは大内船や天竜寺船が運んでいる。

南蛮鉄はフェルフーヘンの『航海記』では慶長16年に家康に2百個、秀忠と本多正純に百個づつ献上。イギリスのコックスの日記によれば元和7年の5月23日にイギリスとオランダが共同して幕府の使者に棒鉄を2把。翌日には有馬侯(松倉豊後守)に1把献上。
南蛮鉄の流入は寛永10年の鎖国令で途絶える。燐と硫黄の含まれている割合が高く、溶解は早い。ダマスカス刀の鋼質と一致。だからインドのマイソールやコロマンデルで生産されたウーツ鋼。木の葉形のは呉鉄とも言われ、華南地方から輸入されたものか。

その他、丹念に読むと参考になることは多いとは思う。

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