「武士の成立 武士像の創出」 高橋昌明 著

示唆に富む本で大変参考になった。内容が豊富で出典も章ごとに明示されている。簡約すると、これまでの日本の歴史では、武士の成立は東国で、在地農村領主の中から誕生し、それが鎌倉幕府の成立の中核になったというストーリーだが、この本では、武士は奈良・平安時代の公家の中において成立していて、武芸もそちらの方が本家であったと説く。

公家は武を嗜まずに、遊芸にふけっており、武士は質実剛健だったというのは江戸時代、そして明治国家、さらには戦後のマルクス・レーニン主義によるもので、後世に作られたイメージだというものである。著者はこれまでも、このような主張をしてきて、学会から批判も多いことを書いているが、その批判にも丁寧に反論している。

私は、この著者の論に共感するところが多い。昔の防人、壬申の乱、坂上田村麻呂に代表される蝦夷征伐、平将門の乱や藤原純友の乱の平定にも京都の朝廷が関与した軍事行動が行われたのである。そもそも軍事力を疎かにしては政権は維持できないのが常識である。

だから、それらの時代ごとにに京都・奈良の中央政府に、軍事の専門集団(武士)が存在していたという著者の主張は素直に首肯できる。公家は、その後の南北朝時代でも南朝方の武将として北畠氏や大塔宮は活躍している。

公家が武に疎いというのは、平安の女性が書いた『源氏物語』が広く読まれ、また江戸幕府が公家は家に伝わる家芸(儒教系、詩歌、書道、蹴鞠、舞楽など)に励むようにとされた為であると著者は言う。
明治になって朝廷改革がなされ、富国強兵路線で、天皇の正式服装が元帥の軍服になり、ここでも武が強調された。

頽廃した貴族に対立する質実剛健で尊皇の念厚き武士団のイメージが作られた。そして戦後は奴隷制から封建制への歴史発展の法則を唱えた領主制論に結びついていく。鎌倉幕府の基盤の東国農村の在地領主こそ、最も正常な成立期武士となった。

武士は芸能人の一つであった。それは武芸=射芸をよくする人で、代々の家業の家としてあった。9世紀の武人の家系は坂上、小野、紀、伴氏などであった。

奈良時代は皇位継承をめぐる政争の中で、独自の手兵の必要から中衛府、授刀衛・外衛府などが生まれ、神護元年(七六五)には八衛府となる。弘仁2年(811)には左右近衛、左右衛門、左右兵衛からなる六衛府体制となる。
武芸に秀でた地方豪族と白丁(六位以下の子や庶民の子)から選抜して、近衛府として宮城の内重に設けられた承明門の開閉と内裏内の警備・宿衛や、行幸時の警固を行う。

京中警備にもあたるが、弘仁年刊に検非違使が創出される。坂上、紀以外に大野、文室、小野が武の家として名が上がる。
寛平年間(889~)に天皇の身辺警護に滝口が登場する。

治安が悪化。平将門の乱、藤原純友の乱などを平定した平貞盛や藤原秀郷が重用される。また蝦夷征伐の源氏が出て、院政の時代に白河院は北面の武士=院の親衛軍として伊勢平氏を登用。河内源氏は摂関家に随従。各地では土着した兵の家から、さらに二次的な武士の家が成立する。

保元・平治の乱で平家が武士の棟梁。各地の国司になる。
源平の争乱では、没官刑システムを生み出した側(源氏)とそうでない側(平氏…ルールやフェアプレーにこだわっている)の争いで、前者が勝ち、鎌倉幕府が成立する。

徳川幕府は、頼朝の故事を大事にした。だから征夷大将軍になり、武家官位の執奏権を幕府が握る。そして公家諸法度で、公家は文の家業に励むようにする。

中世の武士の戦いぶりや武器のことにも触れており、大変為になる本であった。


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