「古田織部」 諏訪勝則 著

古田織部の伝記的な書物であり、古田織部に関する書状などを多く引用して、人物像や人的ネットワークを洗い出している。この本で興味深いのは、織部の人的ネットワークの豊かさが、徳川家康に疑われて、大坂の陣の後に、大坂方に内通の疑いで処罰されたのではと推測していることだ。そして、千利休や豊臣秀次も同様に、幅広い人的、文化的ネットワークがあったが故に、時の権力者に殺されたと論じている。ただ、この本からだと、著者の推論の理由が今一つ私には理解できない。著者は豊臣秀次の研究もしているようであり、この論文も読んでみたい。

古田織部は天文12年か同13年に誕生し、72歳(天文13年生まれとして)で逝去。古田織部の家は断絶するが、中川清秀の妹と結婚しており、その縁で中川家の重臣として古田家は存続している。出身地は美濃で本巣市あたりとの説が有力である。守護の土岐氏に属していた。

織部は連歌にも若い時から熱心であり、里村紹巴の一門であった。茶の湯は千利休に師事し、利休七哲(後世に作られた言葉だが)などにも上げられており、利休切腹におりには細川忠興とともに船を見送っている。忠興と違って、茶における新しい取り組みにも積極的と評される。

26歳頃から織田信長に属している。天正6年に摂津の荒木村重が信長に叛旗を翻した時に、摂津の豪族中川清秀や高山右近も従うが、織部が妻との縁で中川清秀を思いとどまらせたと伝わる。
以降は中川清秀の与騎として、ともに戦う。本能寺の変の後は豊臣秀吉の元で戦う。賤ヶ岳で中川清秀が討ち死にしてからは、その子中川秀政の後見として戦う。
その後、後見役をはずれて秀吉の直臣となって従五位下に任官する。

この間、千利休に師事して、茶道を極めていき、利休との書簡などが紹介される。織部の茶室は三畳台目とか、織部が桜を茶花としと生けたとか、新趣向を行ったことが書かれている。その一つに有名な「ヘウゲモノ」の瀬戸茶碗がある。武家の茶として好まれ、利休、秀吉死後は徳川家と関係を強め、広範な弟子がいる。

そのネットワークから、関ヶ原の時は佐竹義重から人質を家康に提供するような交渉も任されている。
この中に私の趣味の刀装具の後藤徳乗もいることが書かれている。将軍秀忠や徳川家臣団から、佐竹、伊達、南部、毛利などの大名、上田宗固、小堀遠州、黒田官兵衛などや、今井宗薫などの茶人、本阿弥光悦もそうだし、公家衆もいる。

大坂の陣の時に、織部の家臣の木村宗喜が豊臣方と結んで京都で放火をする計画があったとして処罰される。そして大坂の夏の陣から1ヶ月後に織部父子が切腹を命じられる。細川忠興の次男細川興秋(長岡与五郎)も自害である。
著者は、冒頭に記したように、内通していたという事実はなく、その文化的ネットワークが危険因子として排除されたという説である。

織部の人柄として、書簡を読むと、緻密で冷静で、後進に対して細部にわたるまで丁寧に指導している人物と読み解いている。


キムr




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