「鎌倉幕府の転換点」 永井晋 著

鎌倉幕府の政治史上の転換点になる出来事を、鎌倉幕府の史書である『吾妻鏡』を読み直すということで記述した本で、力作である。内容が豊富だから、簡単に要旨を説明しにくいが、「可能性としての源頼政」「ポスト頼朝を勝ち残るのは誰か」「北条時政の栄光と没落」「源氏はなぜ断絶したのか」「北条政子の時代が終わるとき」「宝治合戦の真実」「『吾妻鏡』最後の事件」という章立てである。

はじめに『吾妻鏡』の性格を書いている。以仁王の挙兵計画から六代将軍宗尊親王を京都に送還した文永三年(1266)までの鎌倉幕府の歴史を綴った歴史書で、金沢文庫などで知られる北条実泰流(金沢北条氏)の人物が記し、頼家、実朝の記録は三善康信の子孫の編纂と考えられている。

著者は、この間の将軍について、次のようにまとめる。祭祀王としての将軍家になっていく歴史である。
①頼朝は有力豪族にかつがれた神輿として始まった将軍家を鎌倉幕府のオーナーに創り上げる。
②二代頼家はオーナーであろうとして滅亡し、三代は将軍家を武家の棟梁から公家へ脱皮させることを急いで暗殺される。
③四代以下は源家以外が将軍になるが、四代は九条家から迎えられる頼経である。嫡子頼嗣に将軍家の地位を譲り、天皇に対する院のような立場の大殿になろうとして鎌倉を追われた。

一方、世俗の権力を行使する政権オーナーとしては次のように変遷する。
①はじめは公家政権と同様に乳母夫が主導する体制、
②次は将軍家の生母が親権を掌握し、その親族が外戚として主導する体制、
③宿老の連合体が将軍家を補佐する体制。これが鎌倉時代前期である。
④北条政子、義時の政権後に、北条泰時主導の執権政治が行われる。
⑤泰時の孫経時は大殿政治をはじめようとする九条頼経と対立したが、時頼が得宗専制を開始する。
⑥この体制最後の障害が北条泰時の外戚の三浦氏だが宝治合戦で一掃される。
⑦この後は北条家内部の対立が生まれる。

この節目、節目に色々な血なまぐさい事件(比企氏の乱、梶原景時誅殺、頼家幽閉、実朝暗殺、畠山重忠誅殺、平賀朝雅討伐、宝治合戦など)が起こっているわけであり、これら事件の背景を知るには良い本である。

なお北条政子について頼家、実朝、九条頼経の3代の将軍家では主流派だが、伊賀氏事件以降は老醜をさらしたとしている。北条政子は父の時政と後妻牧氏と対立したが、後妻(継母)との葛藤でもある。

「可能性としての源頼政」の章は、鎌倉幕府成立前の話だが、『吾妻鏡』は以仁王は平家打倒を諸国源氏に呼びかけたことになって、それに頼朝が応じたとしているが、以仁王は高倉天皇が安徳天皇に譲位して、自身の皇位継承の可能性を絶たれたことから、自身の皇位継承を目指して、軍事の中心に源頼政を据えたと見る。頼政与党には関東の豪族千葉常胤、下河辺行平、足利義兼、源義仲などもおり、彼等は頼政の失脚後に平家からの後難を恐れ、頼朝挙兵に協力した可能性も指摘している。
畠山重忠は当初は平家方の大庭景親に味方したが、「平氏は一旦の恩、佐殿は重代相伝の君なり」と頼朝につく。これで板東の平氏側の武将が集まったとある。




ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 1

なるほど(納得、参考になった、ヘー)

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック