「偽りの秀吉像を打ち壊す」 山本博文、堀新、曽根勇二 編

以前に同編者の『消された秀吉の真実』という本を読んだが、編者たちの研究成果の2冊目である。本のタイトルはセンセーショナルだが、内容は史実に即して「なるほど」と思う内容である。
(『消された秀吉の真実』についての読後記録http://mirakudokuraku.at.webry.info/201507/article_15.html

章は「豊臣秀吉は征夷大将軍になりたかったのか?」「消えた前田玄以」「「長丸」の上洛に関しての再検討」「豊臣政権と北奥大名南部家」「秀吉と天皇」「文禄役講和の裏側」「秀吉による伏見・大坂体制の構築」「大坂の陣をめぐる豊臣家と徳川家」「毛利輝元と大坂の陣」に分かれており、編者も含めて研究者が分担執筆をしている。

なお、本のカバーに秀吉画像があるが、これは都城島津邸に所蔵されていて、天正年中に島津家の家臣が狩野家の門弟となり、聚楽第造営の手伝いをした時に、やってきた秀吉を描こうとし、それに気づいた秀吉が「オレの顔を描きたいなら堂々と描け」と言われ描いたとの伝承があるという。ただし西南戦争で原画は焼け、これはそれ以前に模写されたものとのこと。そんな顔だったと思わせるもので興味深い。

「豊臣秀吉は征夷大将軍になりたかったのか?」では従来の「なりたかった説」は林羅山の本に初見があり、徳川史観の嘘であり、それは信長も同じとしている。

「消えた前田玄以」はある史料に前田玄以のことが出ているのに、同じ内容の史料に出ていないことに着目した論である。前田玄以は美濃出身の武士で、和歌、連歌、儒学を学び、公家などと交流があった。信長の時代には京都に村井貞勝がいたが、秀吉時代は。彼が京都所司代的な役割を勤めていたことを書いている。

「「長丸」の上洛に関しての再検討」における長丸とは徳川秀忠のことで、秀吉の小田原征伐の時に、家康の方から秀吉に人質的に上洛させたことを明らかにしている。当時の武家は小田原攻めにあたって、皆、同様なことをしていた。

「豊臣政権と北奥大名南部家」では秀吉から認められた南部信直が、服さず反抗した九戸政実の一揆を鎮圧し、検地を行い、不要な城を壊して領主権力を確立していった過程を考察している。秀吉権力を利用したわけである。同時に秀吉は、それによって地方に支配権を及ぼしたわけだ。

「秀吉と天皇」では、秀吉の朝鮮渡海を止めたとされる後陽成天皇の宸翰がある。これを政治的発言と見る研究者がいるが、二十歳そこそこで祖父上皇を亡くした天皇が擁護者の秀吉に側にいて欲しいと頼んだ手紙とする。秀吉の渡海中止は別の情勢判断からで、別に影響を受けたのではないと述べている。

「文禄役講和の裏側」は小西行長の交渉と、それに不信感を持つ加藤清正などの動きを説明している。複雑であり、簡単には書けない。

「秀吉による伏見・大坂体制の構築」では馬廻衆の妻子の伏見、大坂への移住を強制した内容の文書が残っており、同じく、大名にも同様なことを求める。伏見は材木の木曽→犬山→美濃・近江→琵琶湖→伏見、あるいは伊勢湾→大阪湾→伏見と交通の要になる地と見ていた。また大坂は西国からの入口で大事だった。これを徳川家康も引き継いで、後に大坂に一体化していった。

「大坂の陣をめぐる豊臣家と徳川家」では、直前に徳川義直と浅野幸長の二女春姫との婚儀があり、秀頼はお祝いの書状を出している。浅野家は豊臣家と親戚であり、加藤清正の娘の紀州家への婚姻も含めて、豊臣方を切り崩している様子を説明している。ただ開戦には大義名分も必要で、それまでは家康も秀頼との関係を大事にしている。

「毛利輝元と大坂の陣」では、秀頼は各地の大名に加勢を頼んでいる。この時に毛利輝元が、重臣を佐野道可(宍戸家に生まれ内藤家に養子に入った人物)と名乗らせて大坂に入れたとの説がある。しかし輝元とはそれ以前に縁が切れている文書を証拠に、そのようなことはなかったと実証している。
ただ毛利家には毛利秀元と福原広俊の不仲とか、吉川広家が関ヶ原の時に裏切って徳川方に付いたことへの不満など不穏な動きがあり、そのような中で噂を広める人物がいたり、密書のような文書が生まれたことを書いている。『吉川家譜』『陰徳太平記』などは吉川家に有利になるような史書として編纂したものだ。

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