「「合戦図屏風」で読み解く!戦国合戦の謎」小和田哲男監修

新書であり、屏風絵の画像も小さく、また解説も簡単すぎて、あまり参考にならない本だった。ただし、各家に伝来した屏風絵の背景にまで踏み込んだ説明をしている箇所は興味深い。合戦図屏風は同じ戦場を描いたものがいくつか伝来しているが、その屏風を注文した人物、家を顕彰する意味もあった。

「関ヶ原合戦図屏風」で大阪歴史博物館所蔵のものは津軽家に伝来し、それは家康の養女満天姫が津軽家に輿入れする時に家康からもらったものとされている。家康の姿が克明に書かれていて、福島隊と宇喜多隊の戦いが目立つように描かれている。満天姫は一時期福島家に嫁いでおり、そうした縁で、この屏風が伝来したと推測している。

同様に、「長久手合戦図屏風」で犬山の成瀬家に伝来したものは、白馬にまたがり戦場を颯爽と進んでいる成瀬家の祖が描かれている。他の家に伝来した「長久手合戦図屏風」には、このような人物はおらず、後で成瀬家が追記するようにしたのではとも考えられている。
その理由として、成瀬家は尾張徳川家の付き家老とされて大名並みの石高を得たが、将軍家からは陪臣の位置づけとなり、それへの鬱憤があったのではと推測している。

また紀州家に伝来した「川中島合戦図屏風」は武田信玄と上杉謙信は川の中で戦っている。また武田軍が崩れるところを描いている。川中島合戦図は江戸時代の軍学書によって描かれたもので、当時、幕府は甲州流軍学の立場であった。紀州の徳川頼宣は、当初は駿河の国主だが、紀州に移される。これを不満に思い、越後流の軍学者を抱えた。この為ではないかと推測している。

「大坂冬の陣合戦図屏風」で真田丸が描かれているが、近年の研究成果の真田丸の構造、そして自分達の退路を断つような真田丸に真田信繁が守った背景として、徳川方の兄との内通を疑われないようにしたのではとの説も紹介している。

「姉川合戦図屏風」には、徳川軍の姉川七本鑓の活躍が描かれている。しかし、後の世には賤ヶ岳の七本鑓ほどには有名になっていない。この理由は、後にこの面々が武田方に寝返った為であるようだ。

その賤ヶ岳の七本鑓も、諸説があることを「賤ヶ岳合戦図屏風」で説明している。福島正則を含めておらず、代わりに桜井佐吉を入れたものがある。ちなみに感状をもらった者は桜井に加えて、石河平助も含めた9人である。

「厩図屏風」で、当時の厩を紹介しており、武士にとって馬の大切さを説明している箇所も興味深い。地べたではなく板を張った上で馬を飼っている。そして、そこは小者たちの社交場になっている。また今のサラブレッドは体高160センチで体重500㎏だが、当時の日本の馬は体高120センチ、250㎏だった。戦国の武者は甲冑を含めて身長157センチ、重量80㎏とある。

駿府城の「築城図屏風」を紹介して、石垣の築き方を説明している。石を運び(大きいものは人が上に乗り、音頭をとってコロで運ぶ)、胴木(石垣の沈下を防ぐ為に埋める木)を運び、石を積む。そして石垣の表面を平らに仕上げる(はつると呼ぶ)という工程である。

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