『戦国軍事史への挑戦』 鈴木眞哉 著

この本は、軍事に関する歴史研究がおろそかにされていることを指摘し、どういうことがまだわかっていないか、あるいは誤った知識に毒されているかを書いている。この通りだと思うが、わからないことだけに、著者の文章も歯切れが悪くなって、読み難いところがある。
大きく、「軍隊の組織、編成」「兵種区分」「兵士の装備」「兵士の召集と訓練」「戦い方」「功名の扱い方」「死傷者と武器の問題」というような章ごとにまだ未解明な問題、常識との差などを書いている。

「軍隊の組織、編成」では、動員兵力における非戦闘員の比率などもわからないし、動員兵力そのものもよくわからないのが実態であると述べる。例えば武田軍3万人も、1万石につき250人、当時の信玄の所領を120万石として陸軍参謀本部が求めたようだ。ただし石高は慶長以降の概念であり、正しいかはわからない。
北条家は知行高と軍役が解っている家だが、知行高イコールではなかった。史料に双方●万人というのもがあっても、勝った方は多くの数を言いがちで正確ではない。

ヨーロッパも騎士を中心にランスと呼ばれる騎馬や徒歩の部下を従えて従軍。それらランスをいくつか組み合わせて戦う。日本も騎馬の武士は他に馬丁一人、槍持ち一人の主従三人が最低単位だろうが、石高でも違うだろう。

軍学の世界になると、一備が628人~800人とする。これらには補給要員などの非戦闘員も含まれる。
朝鮮出兵の時の立花家の史料では、隊長を含む士分が300人、それに旗持ち、鉄炮足軽、弓足軽、槍足軽が1100人。これに対して馬丁、小者、小荷駄などの雑卒が1600人である。2度目の時は1364人が戦闘員で、雑卒は1241人である。

傭兵もいたと思われるが、区分は難しい。根来や雑賀は傭兵として戦うと言われているが、実際の戦いは地域を守るとか信仰の為などで金目的は少ない。

「兵種区分」では騎馬と騎兵は違うと強調しているが、この通りだろう。日本は身分が高い者が騎馬という意識が強い。欧州も騎士がいたが火器が普及して消滅。その後に近代騎兵が生まれる。小銃(後装施条銃)が普及すると生まれる。

北条家では知行30貫から40貫で騎馬一騎。江戸時代は二百石くらいが騎馬の武士になるが藩によって違う。そしてこれは騎兵ではなく、あくまで身分である。

「兵士の装備」では戦国大名ごとに、槍、鉄炮、弓などの人数が違う。立花家では槍35。7%、大小旗21.4%、鉄炮14.3%、馬上10。7%、徒武者10。7%、弓7.1%で鉄炮兵の比率が上がるのは関ヶ原の戦い以降である。
馬印などは東が早く西が遅い。地域差がある。一揆、座も近畿が中心と言うのと同じである。鉄炮で硝煙で見えなくなり、目立つために軍装が派手になった。無煙火薬が発明されるとヨーロッパの軍装も地味になる。

近代戦に従軍した成瀬関次は古刀が曲がりやすく、また刀身を柄に差し込み目釘で固定している箇所が弱いと指摘している。柄の故障が刀身の倍以上あったのが改良されなかったのは不思議としている。

「兵士の召集と訓練」も具体的な話となるとよくわからない。太田道灌の資料に訓練の話が出てくるが、集団としての訓練の話ではなく、何人かが弓を習い、技量で上中下の格付けをしたという話である。
軍令、規律違反への対処は史料があるが常識的な話である。喧嘩口論の禁止、抜け駆けの禁止、理由なしに他陣へ交じること、押買狼藉の禁止。行軍の規律違反などである。なお抜け駆けには甘い事例もある。

「戦い方」においては織田の鉄炮中心、武田の騎馬中心などの話は根拠がない。ただ、ヨーロッパでは鉄炮がある種の平等をもたらしたとされているが、これは事実だろう。

甲冑などは行軍のはじめと戦場で着用。他は着ない。2列行軍をしたという史料もあるが地形によっては難しいだろう。
日本人の主戦武器は弓箭。離れて戦いたい。遠戦志向である。これは変わらない。

矛は別にして槍は建武頃から。槍が徒歩兵の集団的運用に適した武器である。
弓にしろ、鉄炮にしろ有効射程は短い。鉄炮も有効射程は60メートルくらいあるが、当たるのは当時は18メートル、10間程度。ヨーロッパも同様。鉄炮は音と硝煙が大きい。


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