「戦いの日本史 武士の時代を読み直す」 本郷和人 著

面白い本であった。次の8章からなっている。「1.平清盛と源頼朝」「2.後鳥羽上皇と北条泰時」「3.安達泰盛と平頼綱」「4.足利尊氏と後醍醐天皇」「5.細川勝元と山名宗全」「6.今川義元と北条氏康」「7.三好長慶と織田信長」「8.豊臣秀吉と徳川家康」 。

史料の分析だけでなく、それをもとに考えることを志向して、ここでは各章のタイトルにあるように、それぞれの人物を対比させて考えていくというスタイルを志向している。

「1.平清盛と源頼朝」では、清盛の白河上皇落胤説について、父も正四位の位までで従三位(公卿)には上がっていないのに、清盛は早いスピードで正三位から太政大臣に昇っている。そこで、それをいぶかしんだ当時の人が理由づけとして落胤説を言ったと解釈する。

清盛は、朝廷の価値観を表面的には受容して文官として振る舞う。そして娘を入内させて安徳天皇が誕生。これは藤原摂関家と同じ構造である。治承3年(1179)に朝廷を制圧して上皇を幽閉し、上級貴族を失脚させて、日本の半分の32カ国の国司を平家一門で独占する。

地方の在地領主はこれを見て、決め手は武力と悟る。だから各地の国衙を占拠して、その国の行政・裁判の実権を握り、自分の土地所有に安定をもたらそうとする。
かくして1180年8月に伊豆で源頼朝、9月に信濃で源義仲、11月に近江源氏、美濃源氏、そして河内源氏も立ち上がる。若狭でも在庁官人が謀反、加賀・能登、次いで9月には越前が在庁官人で占拠される。肥後の菊地隆直、伊予の河野通清も立ち上がる。5月の以仁王の挙兵のためだけではない。

源氏の家系は強い奴こそボスの考え方がある。関東の武士は土地の所有権を求めて従う。関東地方は土地の生産性が低かった。早稲、晩稲が工夫され、魚を使った肥料が登場し、鋤や鍬がゆきわたるのは鎌倉時代から。だから土地を大事にした。当時の武蔵の中心は府中市や国分寺市。武蔵随一の武士団はさらに西の秩父党という状況だった。

平家はみんな揃ってという風土。ただ平家も関東では平将門、国香、貞盛などは争っていた。関東はどうしても生産性が低いから土地の取り合いになる。平家は西国に基盤を持って、瀬戸内海の海運の拠点もおさえ、宋と貿易をする。

頼朝に従った関東武士は「関東が大事」と言う人々。だから頼朝は関東を動かずに、関東の武士の本領を安堵して地頭職につける。これが下文。頼朝は倹約を求める。京から下級役人をスカウトした。

「2.後鳥羽上皇と北条泰時」では、北条氏の壮絶な権力争いに触れる。泰時の父である北条義時は時政の子で政子の弟だが、はじめは江間小四郎と名乗る。梶原景時、比企能員を殺し、頼家を修善寺に幽閉し、殺す。また時政の後妻牧の方の讒言で畠山重忠を殺す。このことに対して、義時は時政を批判する。後に義時は後鳥羽上皇の影響が強くなった実朝殺害の黒幕になり、平賀朝雅を討つ。また和田義盛を亡ぼす。こうして権力を得てきた。

吾妻鏡は正確な史書だが北条を悪くは書かない。

御家人の大内惟義は6カ国の守護。平賀義信の子だが後鳥羽上皇に仕えた。このように御家人の中にも上皇に仕えるものが出る。藤原秀康も8カ国の国司を歴任している。

実朝が殺された後に、後鳥羽上皇は藤原秀康を大将に北条義時討伐を指示。承久の変。

「3.安達泰盛と平頼綱」に関して、2人が争った霜月騒動は古典的解釈は、泰盛ら御家人と頼綱らの御内人の対立。最近は御家人と御内人は明確に区別できないのではと疑問を持たれる。御家人だが御内人も多い。

世の中をうまく治めねばという「統治派」と武士の利益第一の「権益派」がいた。本来は鎌倉幕府は権益派。モンゴル襲来後に安達泰盛の統治派と平頼綱の権益派が争う。
幕府の判例をみると、御家人有利だけではない。北条泰盛は御成敗式目をつくり、統治派を目指した。北条重時の教訓状にも民への慈しみのことが書いてある。
朝廷側にも徳大寺実基という撫民派の公家もいた。これらは当時、浄土の教えが広まった為でもある。

銭貨が宋から日本列島へ流入し続ける。13世紀の1226~1250にかけて銭は日本列島のすみずみに行き渡り、銭による経済取引が広まる。中国からの唐物が入り、不動産の動産化(売買)が避けられなくなり、無産の御家人が生み出される。

こうした中で御家人の利益が第一としたのが平頼綱。北条時頼から安達泰盛にかけての撫民の系譜は絶える。

「4.足利尊氏と後醍醐天皇」では、建武の新政の期間は3年2ヶ月だった。後醍醐天皇は宋の官僚制を志向したと言われるが、著者は後醍醐天皇は古いタイプとみる。吉野朝でも、彼の家は大納言までだからとして、人がいない時にそんなことに拘っていた。

鎌倉幕府滅亡の理由は次の2点ではないか。
①霜月騒動で統治者としての歩みを止めた。御家人の利害だけ。永仁の徳政令は御家人以外から失望。
②貨幣経済が進展し、不動産も売買される。また質素・倹約の空気がなくなる。

尊氏の狙いは京の銭であり、鎌倉から京に出る。南北朝時代といっても両者がまともに戦ったのは1、2年。

室町幕府は守護を将軍の分身としておく。在地領主の土地所有を保護し、その代償として軍事力の提供をもとめる。守護は中央の威光に依拠していた。
室町幕府は鎌倉幕府の続きである。主従制的支配権が中心の鎌倉幕府。そして撫民の統治権的支配権が加わってきたのが鎌倉中期、そして室町幕府。当初は尊氏が軍事、直義が政治の分担だが対立し、室町将軍一人が体現するようになるが、その分、権限は狭くなる。そして守護大名の権限が大きくなる。

「5.細川勝元と山名宗全」では、戦いを起こした側は何を目的としたかを明確にすると、真実が理解できる。
応仁の乱のキーワードは家督争いもあるが足利義満時代に受けたことへのリベンジでもある。

西軍に属した山名宗全(一族で11国の守護。義満は分裂させ、3国の守護へ)、大内政弘(周防、長門に和泉、紀伊、豊前、石見の守護。義満に挑発され周防、長門の2国の守護へ)、土岐成頼(義満は美濃、尾張、伊勢の守護を分裂するようにし、美濃だけの守護にした)と、いずれも義満によって勢力を削がれた大名である。
それに、一色義直、畠山義就が加わる。

東軍は、細川氏(義満のもとで細川頼之が活躍)、赤松氏(細川の尽力で家が再興)に京極、一色である。

山名が反細川で戦いを起こす。乱の終了後に残ったのは細川だから東軍の勝ちである。この後、大名が自分の守護国に下国する。この結果、京都の文化が地方へ伝播。

「6.今川義元と北条氏康」も面白いが、桶狭間の戦いについて、実はそんなに兵力差はなかったのではと分析している。義元だけでなく重臣も死んでいるから、狙うは義元の首という話ではない。当時の米の生産力を比較すると尾張は富裕な地。それなりの兵力を集められる。

だから織田軍が2000人のはずはない。2000人は馬廻りだけで、信長公記の著者太田牛一は年次をずらし、自身も在籍した馬廻りの功績をあげたい為に嘘を書いたと思う。

「8.豊臣秀吉と徳川家康」の中では、長久手における秀吉の別動部隊は奇襲ではない。2万もいればわかる。家康もそちらの攻撃にいったということが判断できずに連動できずに失敗。森長可は遺書を書いており、前の戦いで叱責されており、死ぬ覚悟だった。

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