「鎧をまとう人びと 合戦・甲冑・絵画の手びき」 藤本正行 著

中世の絵画史料の見方を教えてくれる本で参考になる。甲冑を中心に各時代の武装のことに詳しい。また、その知見を生かして、中世の有名な肖像画(足利尊氏騎馬像、武田信玄座像)について考察しており、なるほどと思う。

鎧の用語に「黒糸威」(くろいとおどし)などがあるが、威しとは「紐を通す」=「緒通す」からきている。小札という鉄や牛革の小片(こざね)を数百枚から三千枚も綴って作る。小札を上下に綴る紐を、威毛または威糸という。

中世の鎧は、ほぼ全体が小札でできているが、それらの表面は毛引威の威毛で覆われる。それで武士はその色で個性を出す。中世の物語では、武者の鎧の色と馬の毛色が明記してあるのはその為である。

日本の馬は4尺(約120センチ)を基準とする。それ以上は4尺1寸の馬を「一寸」(ひとき)、以上数えていき、4尺8寸を超えた馬を「八寸に余る」と呼ぶ。

馬には牧場の印の焼き印を押す。名馬の条件は太く逞しいことである。

昔は少数精鋭が近距離で射合う戦い。だから馬を討たなかった(落馬させて仕留めるわけではなかった)。歩卒が大量に動員されると馬を射るようになる。

騎射戦向きの大鎧は、10世紀の承平・天慶の乱の頃にはできた。前九年、後三年の役の時に完成。蒙古襲来まで使われる。馬が重量を負担してくれるから20~30㎏(人の体重もいれると100㎏)の大鎧でも大丈夫。但し大鎧は歩くのには不便である。
馬に乗って、騎射する為に作られたのが大鎧である。

弓で勝負がつかないと、打物戦になるが、狙うところは鎧の隙間となる。そして組み討ちになるが、ここでも内兜か脇の下、下腹部などの鎧の隙間を狙う。
大鎧は身体との間に空間が多い。矢には身体から放れた部分で防ぐ。鎌倉後期は小具足で身体を隙間なく覆う。これは刀剣類による徒歩の接近戦が盛んになってきたからである。

中世甲冑は大鎧、腹巻、腹巻き鎧、胴丸、腹当の5つに分類される。それらは引合せ(着用の際に身体を入れるための切れ目)の箇所で分類される。大鎧は胴の右側、腹巻きも胴の右だが、胴回りが大鎧より長くできており、腹に巻き付けた両端が右脇で重なる。
胴丸は引き合わせが背中。大きく開いている。下卒用である。
腹当は腹にあてる小さな甲冑で、引き合わせは背中にあり、大きく開いている。下卒用。

平安時代に籠手を左手(弓手)だけに付ける。大鎧を着けられぬ下卒は両手に籠手(諸籠手)をつける。太刀や薙刀や槍の接近戦が激化すると諸籠手となる。

14世紀になると太平記の時代。騎馬打ち物合戦になる。こうなると脚部の保護が重要となる。佩楯や脛当が普及。南北朝時代に長くなる。

古画は足をねじれて描く。足を真正面から描くことはしない。足が悪いわけではない。武将が歩行戦闘に備えて草履履きになるのは南北朝から。

守屋家本の武者(足利尊氏像)には、太刀と馬具に輪違文が描かれている。これは高家の紋である。頭上に足利義詮の花押が大きくある。これは証判で軍忠状とも考えられる。子が親の軍忠などは無いから尊氏ではない。高師直か高師詮(馬上切腹した)の画像である。

高野山成慶院の武田信玄像。脇差の紋は丸に二引き両、作者は長谷川信春(後の等伯)で袋印を使っていた時代は等伯の故郷の能登時代の作品。そしてこの紋は能登守護の畠山氏である。また頭に髻がある。描かれているハヤブサの主要な繁殖地は北陸。
以上から、年齢に見合う画像の主は能登守護家に畠山義統と思うが、義統の長男の義綱説もある。

武田信玄像は高野山成慶院にあり、武田逍遙軒が描いたものである。同種のものが、国友助太夫家史料、東京大学史料編纂所のもの、世田谷の浄真寺のものにある。浄真寺のは吉良頼康像とされているが、花菱紋であり武田家のもの。吉良は二引き両か桐紋である。

騎馬像から床几や具足櫃に座る武者像となるのが江戸初期からで、本多忠勝像が代表。

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